第4話 糸口を探して

 ベルイマン古流は、この世界における最古の剣術と評した。

 天駆ける〈神〉を打ち倒すための、空を渡る剣法だと。


 では、通常の剣術――対人戦が不得手かと言うと、そうではない。

 むしろその逆で、奥義の一つである〈空渡り〉を習得するまでに積み重ねる稽古は、対人戦においても有効に作用する。身体的な素質だけで生き残れるほど武術の世界は甘くはない。術理面での優位性、正当性がなければ、マルクスが王国最強の座に君臨することはなかっただろう。


 ならば、ベルイマン古流における対人剣術としての術理とは何か。

 それを語るには、そもそもにおいてとはどういうことかなのかを考察せねばならない。


 結論から言えば、跳躍とは全身運動である。

 反動をつけるための腕を動かす三角筋や大胸筋。空中で姿勢を安定させるための腹筋や背筋。最も高い力を生み出す大腿筋の表裏と、その力を伝達するための大臀筋、腸腰筋。地面を強く蹴り上げるための前脛骨筋、長趾伸筋、下腿三頭筋――全身の筋肉より生じる運動力量を、余すことなく連鎖的に行使して推進力に変換することで初めて人間は跳ぶことができる。

 幼子でもできるような何気ない動作であっても、その皮膚の下で、人間が普段意識している以上の筋肉が躍動しているのだ。


 故に、より高く跳ぶことを欲するならば、本来は意識しない深層部の筋肉の動きを完全に掌握し、なおかつ自在に動かさなければならない。いわんや、足場のない空中でなお思い通りに身体を動かすためには、頭の先から爪の先まで張り巡らされた筋繊維の一本一本を精密に操作できるだけの身体制御感覚が不可欠だ。


 己の肉体を、思考通りに動かす。

 それを一言で言ってしまえば『動作の最適化』である。


 効率的な身体運用は武術全般の根底だ。

 つまり、〈空渡り〉の習得を目的とした稽古を積んでいる時点で、一般的に流布している対人剣術と共通する技能は養えるのである。


 だが、その養い方は独特の一言に尽きる。

 ベルイマン古流では、あえて障害物の多い場所で稽古を行う。実際に奥義を継承した者たちが駆け巡る裏手の森もそうであるし、未熟な門下生たちが基礎を身に着けるために集う道場もまた然り。


 道場の間取りは四方三間。木刀を構えて数人が並んだ状態では、一歩でも間合いを測り損なえば、すぐにぶつかり合ってしまうほどの狭さ。だからこそ、最少、最短、最速の体捌きが自然と養われていく。紙一重の距離を制するほどの身体操作を獲得するのに広々とした空間は不要なのである。


 その道場の一室で、道着姿のローザリッタと年嵩の師範代が一間の距離を開け、膝をついて向かい合っていた。地稽古だ。


 さすがのローザリッタも稽古中はしっかりとした身だしなみをしている。

 丁寧に櫛で梳かれ、邪魔にならないように馬尾状に結わえられた金髪。禊をしてさっぱりとした肌。ぱりっと糊の利いた清潔な道着。どうしても男臭くなりがちな道場において、静かに呼吸を整えながら座す彼女の姿は一輪の薔薇のように可憐だ。


 もっとも、その艶姿に目を奪われるような門下生は道場にはいない。物理的に。この場に存在するのはローザリッタと師範代、そして、検分役を任されたヴィオラの三人だけだ。


 二人は一礼を交わすと、脇に置いた木刀を取って立ち上がる。

 双方、正眼の構えで合図を待つ。


「然らば始め!」

 ヴィオラが声を張り上げて告げると、二人は同時に一歩下がり――双方、甲冑式の上段に構える。


 肩に担ぐような太刀取り。その状態から遠心力を利用して振り下ろす巻き打ちは、狭い空間でも十分に威力を乗せることができる古流特有の上段打ちだ。

 立ち合いでそれを選択する意図は明白。

 即ち、一撃必殺。


 お互いに摺り足でじわりじわりと距離を詰め、間合いを測る。両者とも肩を一切揺らさない。ローザリッタはもとより、対手である師範代もその肩書に違わず並々ならぬ遣い手であることを窺わせる。


 距離が近まるにつれ、徐々に場の空気が緊迫していく。

 用いるは木刀。されど、両者の気迫は真剣そのものだ。


 刻々と二人の距離は縮まり、やがて師範代の間合いとなった。

 男である師範代と比して、女――それもまだ発展の余地を残すローザリッタはどうしても体格面で劣り、そこから生じる差はそのまま射程の不利に直結する。


 しかし、一方的に攻撃を仕掛けられる位置取りであるにも関わらず、師範代は攻撃を仕掛けなかった。

 優越距離とはいえ、攻勢に転じるには踏み込まなければならない。それはつまり、相手の間合いに飛び込むということだ。ベルイマン古流は肉体の合理を極限まで追求した剣術。この程度の射程の有利は剣速で挽回されることも十分あり得る。


 何より、仕掛けるということは剣筋が定まるということ。後の先という言葉があるように、仕掛ける時機さえ捉えることができたのなら、後手に回っても技術論的に対処は可能なのである。


 ――例えば、

 対敵の上段に対し正対称の上段で合わせ、迎え撃った相手の太刀を鎬を利用して脇へと逸らし、自分の打ち込みのみを有効にする攻防一体の絶技。師範代が優越距離にありながら攻撃を仕掛けないのは、この技を警戒しているからだ。


 とはいえ、ローザリッタからすれば、相手とって有利な距離を保ち続ける利点は何一つない。彼女は自分の間合いまで距離を詰めるしか選択がなく、それを冷静に待てる分、心理的な優位性は依然として師範代にある。


 更に距離が縮まり、相撃の間に到達する。


 ――ここまでだ。ここからだ。

 ローザリッタは内心で呟く。

 あと一歩踏み込めば完全にローザリッタの斬り間になり、同時に師範代の間合いを殺すことができる。円運動は中心に近いほど威力が減じるが道理。今度は男性故の射程の長さが仇になるのだ。


 それは師範代も承知している。やすやすと懐へ入られる愚など犯すはずもない。下手にローザリッタが踏み込めば、その動き出しを抑えるつもりだ。加えて太刀取りは上段、五行最速の火の構え。躱すことも、受けることも困難である。

 だがそれは相手も同じこと。師範代が距離の利を取り戻そうと下がれば、即座にローザリッタが振り下ろす。両者、拮抗状態だ。


 ローザリッタの両眼は師範代の動きを遠くに近くに捉え続ける。

 観の目付け、あるいは遠山の目付けとも呼ばれる、相手の全身を見渡す草食動物的な周辺視野だ。一点を凝視する中心視よりも感覚、知覚に優れているため外敵の接近をいち早く察知できるとされる。


 ベルイマン古流においては、それを〈陽の目付け〉と呼ぶ。

 肉体の働きを陽、精神の働きを陰に二分し、行動を起こす時はその何れかに兆しが現れる。膠着状態に陥った二人は己の予兆を消し去ることに努め、相手の手の内を見抜くことに全神経を集中していた。


 ここからは精神力の戦いだ。

 先に仕掛けたくなる衝動を必死に抑え込み、機を窺う。窺い続ける。


 長い静寂の後、ふと、拮抗が崩れる。


 ――


 当人の意図とは関係なく

 絶好の勝機が目前にぶら下げられ、師範代の肉体が本能的に懸かろうとする。


 ――釣られた!

 ――釣れた!


 甲高い音を立て、二つの剣閃が交差した。

 絶技が炸裂する。鎬によって軌道が歪められた師範代の切っ先はローザリッタの肩口をかすめて空を切り、逆に彼女の切っ先は彼の右手首を捉え――触れる寸前、ぴたりと止まった。


「――それまで!」

 ヴィオラが腕を上げる。勝負ありだ。


 二人は所定の位置まで戻り、もう一度深々と頭を下げる。


「……お見事でございます、お嬢様。お父上と手合わせした時は、さながら巌のような威圧感を覚えたものでございますが、お嬢様も腕前もまた遜色ございません」


 師範代が複雑そうな顔をしながら言った。

 無理もないことだ。いくら王国最強の愛娘とはいえ、自分の子供とさほど変わらない年頃の娘にああも見事にやられるとは。己の非才を嫌でも思い知らされる。


「いえ、紙一重でした。それに、師範代は午前の稽古を終えられたばかりですし」

「剣士たるもの常在戦場。いかなる状況においても技量を十全に発揮できなくては意味はありません。自分の完敗です」


 ローザリッタは思わず笑みがこぼれた。師範代の禁欲的な態度は好感が持てる。わたしも負けてはいられないと身が引き締まる思いだった。


「……しかし、珍しゅうございますな。お嬢様が道場にお越しになられるのは。奥義を伝授されてからは、森のほうに入り浸っておるようでしたが」

「いきなり訪ねてごめんなさい」

「いえ、手隙でしたから。門下生たちも、今は昼餉を取っておりますし」


 まだ稽古中であれば、師範代もローザリッタの申し出を断っただろう。

 未熟な門下生がいる前で地稽古――自由に技を繰り出すことを許される形式――を見せるのはどうしても憚られる。


「少し行き詰っていまして。師範代と手合わせすれば、何か掴めるかと思って」

「……自分と?」

 意外な言葉に、師範代は眉を顰めた。


「灯篭斬りさ」

 ヴィオラが口を挟んだ。


「聞いているだろ?」

「ええ。元服を認める代わりに、宗主――お父上から印可の試しを命じられたと」


 こくり、とローザリッタは頷く。

 今朝、印可の試練を言い渡されたあと、すぐにローザリッタは真剣を持ち出して、件の石灯篭と対峙した。


 彼女は据物斬りの経験はあったが、岩石の類を斬った経験はない。当然である。刀剣は人を斬るためのものであって、岩石を斬るようにできていないからだ。

 だが、それでも石灯篭を斬ることが元服の――武者修行を許す条件ならば、何としても果たさねばならない。岩石を斬りつけるのは未知の領域であったが、ローザリッタはこれまでに培った技と経験を総動員して挑んだ。


「――その結果、こうなったわけだ」

 苦笑いを浮かべて、ヴィオラは一振りの太刀を差し出した。

 師範代は差し出された太刀を恭しく受け取り、鞘から刀身を抜き放つ。官能的とさえ思える優美な曲線を備えた太刀だったが――物打処ものうちどころが大きく欠け、刃をすっかり潰してしまっている。


「……これは酷い」

 師範代は顔をしかめた。

 太刀において最も硬い場所は刃である。ベルイマン古流において、攻撃は受けるより躱せ、どうしても受けなければならない時は刃で受けろと教える。太刀の構造上、峰や側面は衝撃に対して脆弱で、すぐに折れてしまうからだ。刃で受けるのが、損傷を最も抑えることができるのである。

 それをここまで潰すほどの一太刀。

 繰り出したローザリッタの技と力と、そして気迫の凄まじさを物語っている。折れ飛ばなかったのは、この太刀が名刀ゆえだろう。


「古銭刀です。真剣稽古が許された年に、父から記念に頂きました」

「ええ、銘は存じています」


 古銭刀は、ある曰くつきの鍛冶師が打った特殊な太刀だ。

 究極の一振りを探求する彼は、その過程で一風変わった素材を使用した太刀を鍛造することがあった。古銭刀は文字通り古銭――鉄貨を素材したもので、古鉄故の硬度と粘りを高次元で両立し、不純物を含まないために鈴のように澄んだ音色を奏でるという。

 歴代の名刀に劣らぬ性能を備える逸品だが、当人からすれば試作品。破棄される予定だったが、縁があってマルクスに献上されたと言われている。


「……正直、侮っていました。兜割りという技もあるくらいですから、できなくはないと思っていたので」


 ローザリッタは悔しそうな顔で唇を噛んだ。

 兜割り。文字通り、鉄兜を太刀で斬りつける技である。

 だが、実際に両断するわけではない。兜に限らず、防具とはそもそも斬れないようにできているもの。どのような名刀、どのような達人であってもせいぜい三寸程度の切込みが限界と言われている。


 鉄と石、どちらが強いかなどというのは無意味な問答であるが、どちらも人の手で断ち切るのが至難であるということは事実。しかして、兜は人の手で斬り込むことができるのは過去の名人たちが証明している。ならば、やってできないことはない――と挑んでは見たものの、結果はご覧の通りだ。


 破壊ならばできるだろう。事実、石灯篭も元を辿れば人の手によって加工されたものだ。鉄と違いって粘りに乏しい石は、応力限界を超える力を叩き込めば、あっさりと割ることができる。


 だが、それが厄介だった。

 マルクスより課させた試練は石灯篭を『斬る』ことだ。

 割ると斬るとでは、その意味が大きく異なる。

 そもそも斬れるという現象は、刃を押し当てられた物体が、左右に引っ張られる応力によって変形する性質を利用して分裂することをいう。つまり、逆に硬いだけで粘りのない石などは、斬るということに関してはまったくの不向きなのだ。何せ、斬れる前に割れるのだから。


 石灯篭を斬るという行為は、いかにして斬れないものを斬るかという問いかけに他ならない。印可を得るに相応しい難問と言えよう。


「師範代も当流印可を授かった御方。手合わせをすれば、何か解決の糸口が見えてくるかと思ったのですが……」

「なるほど」

 自分を指名した理由がそれか、と得心したように師範代は頷く。


「お教えしたいのは山々ですが……印可の試しは他言無用の掟。どうかご理解いただきたい」


 深々と頭を下げる師範代に、ローザリッタは慌てたように手を振った。


「違います違います。答えを聞き出そうとか、そういうのじゃありません。そんな恥知らずではないつもりですよ」

「……知ってほしいなあ、恥。半裸で外に飛び出すのは恥じゃないとでも?」

「あれは、若気の至りです」


 ヴィオラの茶々に、ローザリッタが渋面を作る。

 元服できると勝手に思い込んで舞い上がっていた今朝の自分が、情けなくてしょうがない。


「しかし、困りました。これ以上の太刀なんてめったにないでしょうし、研ぎに出すにしても時間がかかるでしょうし……」


 思い悩むローザリッタに、師範代はばつの悪そうな顔をした。

 掟は掟。破ることは許されない。が、麗しい少女の悲痛な顔を見るのは、どうにも居心地が悪かった。彼は顎に手を添えて、しばし考え込む。それが試練の真実に抵触するかどうか測っているかのように。


「試しの核心を語ることは許されませんが……自分が用いたのは無名の太刀です。名刀であれば達成できるような、単純な試練ではありません」

「……そうですか」


 ローザリッタは安堵の息を吐く。

 少なくとも、名刀探しはしなくて良さそうだ。


「つまり、武器の性能に因らないが必要だ、と仰るのですね」

「それは……お答えしかねますな」


 言っているようなものではあるが、具体性はまったくない。これくらいの助言ならいいだろう、と心の中で宗主に詫びる。


「道具の性能は無関係とはいえ、それでもこの太刀は早めに研ぎ師に見せたほうがよろしいでしょう。芯は折れていないようですが、どこに疲労が蓄積しているかわかりませんから。次は折れ飛ばないとも限りません」


 師範代は丁寧に納刀すると、受け取った時と同様に恭しく持ち主に返した。


「そうですね。せっかくの頂き物をこのまま放置するのは、さすがに気が咎めます」

「そういった心の澱が、本番に臨んでは大きな歪みになるものです。行き詰った時は気分を変えることも肝要。御用達の職人を呼ぶのは簡単ですが、久しぶりに鍛治町まで降りてみてはどうですか。歩きながら考えれば、何か閃くやもしれません」

「……ご助言、痛み入ります。では、さっそく」


 笑顔で一礼をして、ローザリッタは踵を返した。

 気丈に振る舞っていても、その小さな背中には悲壮感が漂っている。地稽古で何も掴めなかったのは明白だ。先程の助言も、どれほど意味があるだろう。


「お嬢様!」

 その姿を労しく思ったのか、師範代が声を投げかける。

 はい、とローザリッタは肩越しに視線を向けた。


「……ご案じなさいますな。自分のような非才な者にも成し得たのです。お嬢様であれば、きっと試練を乗り越えることができましょう」

「ありがとう。――ええ、何としても果たさねばなりません」


 決意を込めてローザリッタは言った。悲痛な横顔だった。



 †††



「……我ながら、ずいぶんと無責任なことを言ったものだ」


 主従が去った道場で、師範代は一人ごちる。

 先ほどの地稽古で放たれた、あの見事な切り落とし。とても十六の小娘の技とは思えない。己が十六の時、あの練度に達していただろうか。いや、到底及ばない。恐ろしいまでの剣の才覚に身震いする思いだ。


「非才にも、か。非才だからこそ、が正しいのかもしれんな」


 このような無理難題を課せられた少女を気の毒に思う。

 石灯篭を斬る。それは数年前、自身に課せられた印可の試練の内容とほぼ同質のものであり、彼はその答えを知っている。


 だからこそ見えてしまう。彼女の――決して覆せない未来が。


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