第3話 元服の条件

 ――人生最大の失敗は何だろうか。

 モリスト地方領主マルクスは閉ざされた視界のなかで自問した。


 答えはすぐに返ってくる。

 ――決まっている。我が娘に剣を学ばせたことだ。


 そうでなければ、自分は今、これほど頭を悩ませてはいないだろう。

 親族たちの意見は一致していたとはいえ、ローザリッタの元服の儀を取り止めにすると決定したのは他ならぬマルクスだ。彼女が元服を、ひいては武者修行に出るのを心待ちにしていたのは、この館の誰もが知っている。それをいかにして説得させるか。諦めさせるか。彼の悩みはそこに尽きる。


 取り止めの件がローザリッタの耳に入れば、いの一番にマルクスのところに詰め寄ってくるのは明らかだ。そう考えると何とも気分が重い。最近、頭髪の霜が濃くなったのは寄る年波以外にも原因がありそうだ。


 だが、もともとは自分が蒔いた種。己にその資格がないことくらいは解ってはいるのだが――。


 布団の中で悶々をしているうちに、窓の向こうから小鳥の囀りが聞こえ始めた。


 ――もう朝か。結局、一睡もできなかったな。

 マルクスはそれ以上眠るのを諦めて、そっと寝床から抜け出した。肩掛けを一枚羽織り、寝室を後にする。


 人気のない薄暗い廊下をひたひたと歩いていると、外から警笛が聞こえてきた。


(……賊か?)

 マルクスは眉を顰めた。泥棒騒ぎが皆無とは言わないが、警備が厳重な貴族の館にわざわざ忍び込む輩は少ない。まして、ここは王国最強の男が住まう場所だ。どんな荒くれ者であっても二の足を踏む。


 警笛の音が聞こえてからしばらくして、側近の男が走ってきた。


「お館様、こちらでございましたか」

「何事だ」


 恭しく片膝をつく側近に問いかける。


「ご報告申し上げます。お嬢様が……ローザリッタ様が館を飛び出されました」

「……何やっておるんだ、あやつは」


 マルクスは重苦しい溜め息を吐く。だいたいの察しはついた。元服の儀が――正確には、その後に待ち受けている武者修行の旅が待ち遠しくて、いてもたってもいられなくなったのだろう。


「ヴィオラ殿が後を追いかけていますが、いかがいたしましょう?」

「どうせ裏手の森じゃろ。ひとっ跳びしたらすぐに戻ってくる。別段、警戒する必要はない。巡邏にも迷惑をかけたと言っておいてくれ」

「御意」

「……ああ、それと」


 一礼して下がろうとする側近をマルクスが引き止めた。悪戯っぽい笑みが口元に浮かぶ。


「茶を淹れてきてくれ。眠気を覚ましたい。濃い目でな」

「はっ」

「中庭まで運んでくれ。先に行く」


 言い置いて、マルクスは館の中庭に足を運んだ。

 花壇に植えられた季節の花々。極彩模様の淡水魚を放した小さな池。竜を模した石造りの灯篭。貴族の庭園にしてはこじんまりとしているが、暇を見つけてはマルクス手ずから世話をしている自慢の庭だ。


 マルクスはおもむろに縁側に腰掛け、側役が運んできた淹れたての茶をすする。土を啄む小鳥たちをぼんやりと眺めながら、これからどうしたものかと思案していると。


「――お父様!」

 中庭の塀を飛び越えて、ローザリッタが舞い戻ってきた。


 その姿にぎょっとする。風でぐしゃぐしゃに乱れた髪に、乳房が今にもまろびでそうなほどに崩れた寝巻き。さらには素足。

 お転婆というには生ぬるく、あられもないというにはれ過ぎる姿に思わず茶を吹きそうになったが、強靭な自制心で醜態を抑え込んだ。


「……朝っぱらから騒々しいぞ、ローザリッタ。それと、塀を飛び越えるな。きちんと玄関から出入りしなさい」

「元服の儀を取り止めにするとはどういうことですか!」


 マルクスの小言を無視し、ローザリッタは柳眉を逆立てて詰め寄った。


「言葉通りの意味だ。そなた、元服の儀を済ませたら武者修行に出るつもりであろう?」

「もちろんです!」


 わかりきった返答ではあったが、それでもマルクスは苦々しく口元を歪めずにはいられなかった。


「ローザリッタ、そなたはこのベルイマン男爵家の跡取りだ。儂にはそなた以外に子がおらん。元服した後はしかるべき婿を取り、男児を産む責務がある。……と、前々から言っておるではないか」


 レスニア王国において爵位継承は長子相続が原則である。基本的には長男が継承するが、男児がいない場合は長女であっても相続を許された。

 国家賢人の働きによって高い文化水準を誇るレスニア王国であっても、医療分野は完全ではない。未だ子供の早死を克服できていない時世、そうしなければ血統が保てないのである。


 その一方で、女性当主の効力は一代限りと定められていた。あくまで正当な嫡子が生まれるまでの繋ぎであり、爵位を継承した女は速やかに次の継承者たる男児を産むことを嘱望されている。故に、女当主の責任は重い。


「その言葉、そっくりお返しします。男爵家の当主になることと、優れた剣士になることは併存すると前々から申し上げているはず。市井を知らぬ者が、良き統治者になれるとは思いません。結婚など武者修行のあとでもいいではないですか!」

「旅先で死なれたら困る」


 率直かつ明瞭な理由。

 街の外へ一歩踏み出せば、そこは異類異形の動植物が跋扈ばっこする人外魔境。専門の知識や技術がなければ渡り歩くことさえ困難だ。


 すでに初老に差し掛かったマルクスにとって、一人娘であるローザリッタは男爵家存続のための命綱である。武者修行の旅で万一のことがあれば、お家が傾く。当主として当然の発言であった。


 無論、そんな事情はこれまでにさんざん語って聞かせてきたつもりだ。それでも、ローザリッタの剣術に対する熱意は失せる兆しを一向に見せない。それこそ、元服の日の直前まで。


 不安に駆られたマルクスおよび親族たちは急遽、会議の場を設けて話し合った。そこで出た結論が、元服そのものを遅らせてしまえばいいというものだ。元服しなければ武者修行に出る資格も理由もない。もちろん、問題の先送りでしかないのも事実ではあるのだが。


「だいたいな、武者修行などしなくとも、そなたは充分に強いではないか。門人の中でも並ぶ者はおらん。どうして、そこまで強さを求める?」

「――強さに充分などありません」


 マルクスを真っ直ぐに見つめて、ローザリッタは断言した。


「充分など手抜きの言い訳です。取り零すことを前提とした強さなんて、わたしは求めていません。わたしは、わたしが守りたいと願う全てを守りたい。ベルイマンの家も。領民も。この国も。あらゆる理不尽から全てを守れるだけの強さが欲しいのです!」


 そう断言する我が娘を、マルクスは痛ましげな眼差しで見つめる。

 とある経緯から、ローザリッタに請われて剣術を教えることになった。武芸は貴人の嗜みでもあるし、自分の身は自分で守れるに越したことはない。それでも護身術程度の技量さえ身に着けばいいと思っていた。――その時は。


 しかし、彼女はマルクスが想像を遥かに上回る速度で成長した。さながら真綿が水を吸うように、わずか十年の歳月、十六という若年で並ぶ者のないほどの実力を身に着けたのである。

 しかも、彼女の成長は止まることを知らない。今が限界でないことくらい、親の欲目を抜きにしてもわかる。王国最強をして底が見えぬと唸らせる特大の原石だ。


 だが、その大きすぎる才能が、この騒動の原因だった。


 限界を知らぬ者は、適度を知らぬ。

 人は、己の限界を知ることで謙虚さを身に着ける。我が身の矮小さを知り、この世には抗えぬものがあると理解して己の運命を受け入れる。

 ましてや――お伽噺の英雄ではあるまいし、たった一人の人間が全てを守るなど不可能だ。十六ともなれば、その程度の道理は弁えているものであるが、未だ自身の限界に直面したことのないローザリッタにとって、そういった現実は受け入れがたいものなのだろう。


 何より恐ろしいのは、ローザリッタにとって眼前の父ですら壁ではないことだ。遥か山巓さんてんには違いないが、。王国最強をして壁役にすらならぬとは、彼女の天賦を知らぬものが聞けば笑い話にしか聞こえまい。


(鳶が鷹を生むとは言うが、よもやこの儂が鳶とはな。世界はまだまだ広い……ということか)


 マルクスとて剣士だ。ローザリッタという特大の原石を磨いてみたい、どこまで行けるのか見てみたいという気持ちは確かにある。だが、彼には男爵家当主としての立場があった。その決定に私情を挟むわけにはいかない。


(さて、ここまでは予想通りだが……)


 ローザリッタの反発は解り切っていたことだ。

 問題は、ここからどう諦めさせるかである。


 権力や立場で押さえつけるのは悪手だろう。駆け落ちなどがそうであるように、若い時の情熱というものは途轍もない行動力を秘めている。無理やり言うことを聞かせれば、後でどのような反動がでるか予想できない。最悪、家出などされては末代までの恥だ。


 穏便に、かつ、本人の意思で断念させる。それのなんと難しいことか。物の道理をわからぬ小娘を諭すのに、王国最強の肩書などまったく役に立たない。この小娘の意固地さときたら、まるで庭先の石燈籠のようではないか。


(……待てよ?)


 ふと、マルクスの脳裏に妙案が浮かんだ。


「――時に、ローザリッタよ。そなた、印可が欲しくはないか?」

「……なんです、藪から棒に」

「欲しいかと聞いておる」

「それは、頂けるなら欲しいですけど……」


 問いかけの意味が解らず、ローザリッタがわずかに動揺する。

 剣術の世界において、弟子がどこまで上達したのかを表わすのが伝位である。流派によって段階や名称は異なるが、ベルイマン古流では初伝、中伝、免許、皆伝、印可の順序となっている。


 印可を授かるということは、その流派の技術、理念を全て継承したことを示し、独立して弟子を取ることを許される。例えば、町道場の道場主などは、それ自身が流派の宗家であるか、さもなくば印可を授かって独立したかのどちらかだ。


「印可を授けるから武者修行を諦めろとか、そういう話じゃないでしょうね?」

「馬鹿者。卑しくも宗家の人間が、印可を取引の材料にするか。そなたは既に免許皆伝の位。少し早いが、別に印可の試練を与えてもおかしくはあるまい」

「それは願ってもないことですが……話を逸らそうとしていません?」

「いや、そなたの進退に関することだとも。なぜなら、印可をもって、そなたの元服を認めようというのだ」


 ローザリッタの表情がわずかに和らぐのを見て、マルクスは自身の妙案に手応えを感じた。意見が相違する場合、一方の主張だけを押し通したところで相手は納得しない。相手の意見も受け入れた上で歩み寄って、折り合いをつけることこそが肝要だ。

 ――それがたとえ、言葉の上のことであったとしても。


「それで、試練の内容は!?」

「これだ」

 はやるローザリッタとは対照的に、マルクスは池のそばに鎮座する石灯篭にゆっくりと歩み寄り、その頭を叩いた。


「……その灯篭が、なにか?」

「斬ってみよ」

「は?」

 言葉の意味が解らずに、きょとんとするローザリッタ。

 マルクスは挑戦的な笑みを浮かべる。


「七日後の日没までに、この石灯篭を斬ってみよ。さすれば当流印可を与え、元服を――武者修行を許そうではないか」

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