第8話 魔剣

 ――最高の力と技を込めた一撃だった。

 事実、ローザリッタの太刀は石肌を砕いて、刀身を食い込ませることに成功している。

 だが、それだけ。両断には届いていない。石灯篭は


 ローザリッタは振り下ろした体勢で硬直していた。その表情はまるで能面のように感情の色がない。全ての色を混ぜると黒になるように、その胸裏に無数の感情が渦巻いている。


「……っ!」

 だが、それも一瞬。

 ローザリッタは歯を食いしばり、鉛のように重たい腕で今一度大上段に構えた。

 まだ陽は沈み切っていない。猶予は残されている。

 最後の最後まで、諦める気はなかった。


「……もう良い。試しは失敗だ、ローザ」


 見るに堪えないとばかりに、マルクスが口を開いた。

 既に結果は見えている。ローザリッタは先刻の一撃に全身全霊を賭した。余力など微塵も残っていない。彼女がしようとしているのはただの悪あがきだ。


「まだ時間は残っています……!」

「諦めろ。剣士には潔さも必要だ」

「いいえ、諦めません!」


 悲痛な叫びをあげて、ローザリッタは太刀を振り下ろした。

 精度は雲泥の差。あえなく弾かれる。


「くっ……!」

 振り下ろす。――斬れない。

 振り下ろす。――斬れない。

 振り下ろす。――異音。


「……無様な」

 マルクスは痛ましげに唸った。


 鈴の音が響くとされる古銭刀とは思えない、濁った音。

 ローザリッタの手に握られた古銭刀が――その物打ち処から先がない。

 

 いかな古銭刀とて、太刀の構造上の脆弱さからは逃れられない。正しく刀線刃筋を立てていない振り方では、応力であっさりと折れてしまう。

 普段のローザリッタであれば、そのような雑な振り方はしない。それができないほど彼女は消耗しているのだ。


 剣術は、剣の性能を十二分に発揮するためのもの。そして太刀の最もよく切れる部分が切っ先三寸の物打ちだ。力も技も、全てそこに集約する。それがない。致命的だった。


 力も尽きた。技も尽きた。太刀も折れ、時間も無い。

 太陽は地平線の向こうに隠れ、わずかな光輝が稜線を照らすのみ。

 あと数秒で、夜になる。


 ――間に合わない。

 ローザリッタの心に夜よりも昏い絶望が圧し掛かった。


 内なる声が囁きかけてくる。

 これが自分の限界だ。やるだけのことはやった。全力を尽くした。もう諦めてもいいではないか――


「いいわけ、ない……!」


 それでも、ローザリッタは。最後の気力を振り絞って、内なる甘言を跳ねのける。


 だが、いかに意思が健在であろうと、肉体が既に限界を迎えているのは揺るぎない事実だ。両の眼は焦点さえ合わず、どれだけ打ち付けても傾きもしなかった石灯篭が陽炎のように揺らめいて見える。疲労の極限。もはや立つことさえままならない。


「――あ」


 小さな呟き。朦朧とする視界の中で、石灯篭が姿を変えた。

 無論、幻覚だ。

 渾身の力で打ち続けても傾きすらしない灯篭が突然変形するわけがない。


 だが、ローザリッタは確かに幻視たのだ。

 流れるような金髪と空色の瞳をした、あどけない童女を。大切な人を犠牲にして生き永らえた、無力で無様な子供の形を。

 それが、潰えかけていた精神と肉体に最後の火を灯した。


(ああ、そうだ。わたしが本当に斬りたいのは――)


 ――かちり。と、どこかで歯車が噛み合う音がする。


 刹那、ローザリッタは漠然と世界を見下ろしているような感覚に襲われた。地上にいながら、より高い地平から俯瞰しているかのように。この世界を構成するありとあらゆる情報が――に至るまで怒涛の如く脳内を駆け巡る。


 世界の全てを掌握するような全能感。

 この時、ローザリッタは捨て去っていた。石灯篭を斬りたいという我欲を。強くなりたいという願望を。すなわち――無念無想。


 見えない糸に手繰られるように、ローザリッタの体が勝手に動いた。

 日が完全に沈む。帳が降りる。


 その直前、すべてを断ち切る神速の斬撃が閃いた。



 †††



 ――種明かしをすれば。

 印可の試しの本質は棄却。斬れぬものは斬れぬ、と諦めることにある。


 魚のように泳げても魚には勝てぬし、馬のように速く駆けても馬には及ばぬ。鳥のように空を渡ろうと、やはり己は鳥ではない。

 いくら強かろうと人間は人間。それに応じた分というものがあり、人が人以上を求めてはならぬという訓戒だ。

 それを受け入れて初めて本当の謙虚さが身につく。この試練は、ありていに言えば才ある者の慢心を諫めるためのものだった。


 やりたいことと、できることは違う。

 マルクスは試練を通じて、世の中には抗えないものがあると教えたかった。子を産み、育て、領主の務めを全うすることで守られる、ローザリッタにしかできない戦いもあるのだと知ってほしかったのだ。


 しかし――


「本当に、斬ってしまいおったか……」


 糸の切れた人形のように倒れた愛娘を抱きかかえながら、マルクスは呆れるように呟いた。

 視線の先には、袈裟懸けの形で両断された灯篭の残骸が転がっている。

 その断面は磨かれた鏡のように滑らかだ。一目でと鮮烈に伝わってくる。


「今のは魔法とかいうやつか……国家賢人たちが言っておったな。意志の力で物質の状態を変える、出鱈目な力があると」


 最新の賢者は言う。

 人間の五感で捉えられる像は、正しく世界の全てではない。世界にはがあり、それを認識、観測することで世界の在り様を変質させることができるのだと。

 それが魔法。

 人の身でありながら炎を生み、冷気を放ち、風を巻き、稲妻を操る。技術も理論も超越した力の顕現。


 彼らの言葉を借りるのなら、ローザリッタは石灯篭をを垣間見たのであろう。


「まったく……とんでもないな、そなたは」

 マルクスは苦い笑みを浮かべる。

 意思で石を斬るなど言葉遊びにしても出来が悪すぎる。

 とはいえ、こうなってはもう認めるしかあるいまい。

 きっと彼女が旅立つのは天命。領主だの跡継ぎだのという人間の価値観を一笑に付す、大いなる意志の決定なのだ。


「諦めるのは、まさかこちらのほうだったとは。……だが、困った。斬ってしまっては印可はやれん。最後まで儂を悩ませおって」


 そうぼやきながら、気を失った娘の頬を愛おし気に撫でる。

 ローザリッタの成したことは試しの本質から言えば、明らかな失敗だ。

 試練の真髄を隠したまま、印可を与えられないことをいかに伝えるか。マルクスは今度はそれで悩まなければならなかった。



 †††



 満天の星空の下、リリアムは野宿をしていた。

 焚火のわずかな明かりを頼りに、使い古した地図を眺めている。


 結局、シルネオの街には探し人の手がかりはなかった。もっとも、糸口を得られなかったのは今回が初めてではない。振り出しに戻るのは、いつものことだ。


 それでも、彼女が旅を止めることはない。

 彼女の胸の中で憎悪の炎は燃え続ける。それがある限り、諦めるという選択肢はない。

 それにしても――


「……買い過ぎたわ」

 睨めっこしていた地図から目を離し、焚火を見やる。正確には、そのそばに突き立てられているいくつもの串を。


 持ち帰り用に包んでもらった芋の串揚げである。

 シルネオの街で酔狂な少女と一緒に食べて以来、すっかり病みつきになっていた。観光資源と侮っていたが、味は悪くない。むしろ良い。


 街を去る時、食べ治めと思って弁当代わりに大量に買い込んだものの、他の保存食と違って日持ちはしない。今夜中に食べてしまわなければならなかった。


 いくら好みでも揚げ物ばかりではさすがに飽きる。とはいえ、捨てるなど健啖家の矜持が許さない。はてさて、どうしたものか――


「こ、こんばんは……」

「――――」

 遠慮がちに投げかけられた声に、リリアムの体が硬直する。

 街の外において、夜に行動するもののだいたいは人間にとって不都合なものだ。夜行性の肉食獣。寝込みを襲おうとする野盗。あるいは、いずれでもない


 一人で旅をする身の上。こういった事態には慣れている。今更、驚くようなことではない。問題は、声がかかる距離までそれが接近していることに気づけなかったことだ。


 リリアムはすぐさま腰の太刀に手を伸ばした。彼女には座った状態から即座に斬りかかる技があるが、彼女の感知をすり抜けるような手練れにどこまで通用するか。


 慎重に視線を動かし――その先に立っていたのが見知った顔とわかって、リリアムは太刀の柄から手を離した。


 それは武装した少女だった。

 馬尾状に結った長い金髪。澄んだ空色の瞳。

 清潔そうな色合いの旅装束の上から胸甲鎧を纏い、腕は籠手、足は脛当てで防御を固めている。腰の革帯には大小の太刀を差し、そのどれもが真新しい。

 少女はどこか照れた表情を浮かべていた。

 語るまでもない。ローザリッタである。


「……久しぶりね。ずいぶん立派な旅装束じゃない。あの時は気づかなかったけど、あなた、いいところのお嬢様だったんだ?」


 ローザリッタの装備は旅人というよりは遍歴の騎士そのものだった。太刀にしろ鎧にしろ、相応の資金がなければ用意できない。そこから導き出された解答。

 ローザリッタは申し訳なさそうに頭を垂れる。


「騙してすみません。あなたとは立場や身分を抜きにして、対等にお話ししたかったものですから……」

「そ。別に怒ったりしてないわ。……その様子じゃ、やり遂げたようね」

「リリアムのおかげです」

「斬ったの?」

「はい。と言っても、どうやったかはまるで覚えていないんですが……」


 ローザリッタの答えは曖昧なものだったが、リリアムは疑わなかった。

 無念無想というのは案外、そういうものかもしれない。念じず、想わず、無意識の内に事を成す。意識を取り戻した時には、それは既に過去のこと。結果だけが目の前に残る。確信が持てなくても仕方あるまい。


「あの、それで、ですね……」

 恥ずかし気に、もじもじと指を絡ませるローザリッタ。


「わたしもヴィオラも街の外に出るのは初めてで、その、これからどこを目指そうか迷っているんですが……」

「なに? どこに行くかも決めてなかったの?」

「はい。正直、実戦のことしか考えてませんでした」

「……剣術馬鹿って言われてもしょうがない気がしてきたわ」


 リリアムは呆れたように溜め息を吐いた。あまりにも無計画すぎる。


「そういうわけで……しばらく一緒に行きませんか? もちろん、お邪魔じゃなければですけど……」


 その提案に、リリアムは暫し黙考する。

 彼女が一人で旅をしているのは、その理由があくまで彼女個人の『憎悪』に所以するものだからだ。自分の事情に他人を巻き込みたくはなかったし、何より他人に関わってほしくない。


 だが、目的地も決めずに旅に出るような世間知らずのお嬢様を放っておくのもどうだろうか。彼女の腕前ならば野盗ごときに易々と遅れは取らないだろうが、どれほど腕に自信があろうと野垂れ死ぬ可能性は充分ある。顔見知りが行き倒れるのは何とも寝覚めが悪い。それが自身の技の曇りにならないだろうか。何より――


「……まあ、いっか」


 あっさりとリリアムは結論を下した。自分でも意外に思うほど。


「どうせ、次の街に行くには街道を通らないといけないし。同じ道を歩くなら複数の方が安全だし。それに……また会えたら一緒に食事をするって約束だったしね」

「それじゃあ」


 ローザリッタの顔がぱっと明るくなり、リリアムは薄く微笑んだ。


「さっそく、一緒に夕餉を食べましょ。ちょうど、一人じゃ食べきれないと思っていたところよ」


 はい、と頷きつつ、ローザリッタの双眸は焚火のそばに刺さった串へ。

 目視で数え――嘘だ、あなたなら余裕でしょう。と言いたげな視線を感じ取ったリリアムは少しむっとした表情を浮かべる。


「……いらないなら、全部私が食べるけど」

「い、いえいえ! ありがたくご相伴に預からせていただきます! あ、ヴィオラも呼んできますね!」


 誤魔化すようにぱたぱたと手を振って、ローザリッタは近くに控えているであろうヴィオラを呼びに走っていく。

 剣術遣いらしからぬ弾んだ足取りは、彼女の気持ちの表れだろうか。


「……やれやれ。これから騒がしくなりそうね」


 吐息を一つ。リリアムは地図を丁寧に懐にしまいながら空を見上げる。

 夜空に散りばめられた無数の星々が、少女たちの門出を祝うように瞬いていた。







 壱の太刀 灯篭斬り/了


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