第21話 夢か友か

 終課の鐘が鳴る頃には、〈青い野熊亭〉の営業も終了していた。

 街はすっかり濃密な闇に覆われている。眠りが遅い都市部ではあるが、明かりがついている建物はもう数えるほどだ。


「はい。今日一日ご苦労様」

 最低限の明かりだけが灯された薄暗い食堂で、ローザリッタとリリアムはファムから今日の給金を渡された。

 本来、こういった役目は亭主が行うものであろうが、彼自身が言っていたように経営面はファムに一任しているのだろう。


「ありがとうございます!」

 渡された銀貨数枚を丁寧に受け取ったローザリッタは顔をほころばせる。

 まるで宝石でも受け取ったかのように胸元でそっと握りしめるのを見て、リリアムは苦笑を浮かべた。


「大袈裟ね。これくらいの額、あなたにとってははした金でしょうに」

「金額は関係ありません。今日一日の労働が形になったことを喜んでいるんです」

「ローザちゃんが無事にお勤めを果たせて、おねえさんも嬉しいわ。初日から大わらわだったものね」

 働いたのは夕方から夜にかけての数刻の間だけだったが、それでもローザリッタには未知の体験ばかりだった。中でも――


「……あの人、大丈夫でしょうか」

「軽い脳震盪だったようだし、命に別状はないでしょ」

「だと、いいのですが」

 ローザリッタに投げられた後、しばらくして目を覚ましたデストラは、気絶する前とはうって変わって神妙な態度だった。シニスを追いかけることも、暴れることもなく、とりあえず宛がわれた控え室で警吏が駆けつけるのを無言で待っていた。


「迷惑をかけた」

 そう一言だけ呟いて、デストラは到着した警吏に連行されていった。流血沙汰にこそなっていないが、立派な騒乱罪だ。最低でも、今日一晩は拘置所に身柄を拘束されるだろう。


「おーい」

 ローザリッタが顛末を思い返していると、厨房からヴィオラが顔を出した。

 その手には湯気を立てる大きな鍋が抱えられている。


「店長が賄い作ってくれたぞ。せっかくだから、食っていこうぜ」

「ありがたいわね。食費が浮くわ」

 言った側から、リリアムの腹が鳴る。

 その予想外の大きさにファムはびっくりするが、すぐにいつもの笑顔に戻った。


 ヴィオラは卓の上に鍋ごと乗せ、取り皿を配る。

 賄いは二種の根菜と豆、芋などの野菜と一緒に鶏挽肉の団子を煮込み、その上に半熟の卵を落としたものだ。


「おい、リリアム。芋ばっかり取るなよ」

「いいでしょ、まだいっぱいあるんだから」

「よかねぇ。彩りを考えろ。いいか、料理っていうのは調和だ。剣において心技体が肝要なように、食にもまた三原色をだな――」

「ヴィオラちゃん、お母さんみたいねぇ」

 鍋に舌鼓を打ちながら四方山話に花を咲かせる中、ローザリッタだけが箸を動かしていなかった。どこか浮かない顔をしている。


「もーらった」

「うぇ?」

 はっと気づいた時には、ローザリッタの皿から肉団子が消えていた。ファムが小鳥を丸のみにした猫のようににんまりしている。


「……意地汚いわね。まだ残っているんだから、新しくよそえばいいのに」

 呆れたようにリリアムが言う。


「だって、ローザちゃん、ぼーっとしているんだもの」

「ぼーっとしてたからって、取っていいことにはならないでしょ」

「あ、いえ。大丈夫ですよ。わたしは気にしてませんから」

 苦笑するローザリッタに、ファムは心底不思議そうな顔をする。


「……怒らないの?」

「え? ああ、別にこれくらいで怒るわけないじゃないですか」

「つまんないなぁ! ローザちゃんの怒った顔、見たかったのに!」

 ファムはぷくりと頬を膨らませる。


「お、怒ったほうがよかったんでしょうか?」

「真に受けないの。ファムさんはあなたをからかって、面白がっているだけなんだから。でも、呆けているのは確かね。何が気になっているの?」

「その、まいないのことが気になって……」

「……ああ。別にあり得ない話じゃないでしょ?」

 平然とリリアムは言った。


「剣術はあくまで職能に過ぎない。それを活かして生計を立てようと思えば、騎士か傭兵、警吏、道場主くらいしかあてがないじゃない? 中でも剣術指南役は地位、名誉ともに最高峰と言っていい。汚い手を使ってでもその座を手に入れたいって考えてもおかしくはないでしょうね」

「そんな……」

 ローザリッタは愕然とした。


「純粋なあなたにとっては、剣を汚されたような気持になったでしょうけど、これが現実よ。誰も彼もが、あなたのようにただ剣だけ振って生きれるほど裕福なわけではないのよ」

 ローザリッタは何も言えなかった。反論しようもないほど、真実だったからだ。

 自分はやっぱり世間知らずのお嬢様に過ぎないのだろうか。


「シニスさんとデストラさんは、ダヴァン流道場の両翼って呼ばれていてね。師の跡を継いで剣術指南役になることを夢見て、お互いに拙作琢磨し合う間柄だったわ。私の目から見ても、二人の間には確かな友情があったと思う」

「それなのに、ああなっちゃったんですね……」

「いざ目の前に夢を掴む機会がやってくると、友情なんて脆いものね」

「……悲しいことです」

「ただの馬鹿よ、馬鹿」

 忌々しそうにリリアム。もともと剣の名誉に取りつかれた人間を嫌う彼女だ。今回のように目先の名誉に溺れ、人間関係を損なうような話など、唾棄すべきものなのかもしれない。


「……わたし、明日、あの二人の道場に行ってみようと思うのですが」

「おいおい、首突っ込む気かよ?」

 面倒臭ェと言わんばかりのヴィオラの渋面。


「どのみち、手合わせする約束でしたし。あれからどうなったか、気になります」

「ふうん。私は興味ないから、別行動ね」

 そっけない対応のリリアム。剣術遣いへの嫌悪感を抜きにしても、彼女には彼女の目的がある。ローザリッタも無理強いはしなかった。


「構いませんよ。リリアムは何をするんですか?」

「例によって情報収集。ついでに、別の求人を探してくるわ」

「えー、辞めちゃうのぉ?」

 ファムが目をぱちくりさせ、逆にリリアムは半眼になる。


「むしろ、辞めないと思ったの? 一日付き合っただけでも感謝してちょうだい」

「リリアムちゃんが抜けると、おねえさん困っちゃうなぁ……」

「知ったこっちゃないわよ」

「うさぎさんが気に入らないなら、別の制服用意するわ。そうそう、ヴィオラちゃんともそういう話をしていたんだっけ。これ、さっき言ってた新しい制服の試作品なんだけど」

 そう言って、ファムが取り出したのは――


「なによそれ、ほとんど紐じゃない!?」

「おいおい、さすがに許可しねーぞ、お嬢がそれ着るの。もちろん、あたしもな」

「いや、わたしもさすがにそれは……」

「ええ!? まさかの天然のローザちゃんにまで反対されるなんて!?」

 三者三様に拒絶の意を表され、ファムは愕然とした表情になる。


「だって、それだと……ごにょごにょ……が、はみ出るのは確定じゃないですか。さすがに見苦しいかと。……ところで、天然ってどういうことです?」

「そんなことないわよぅ。そういうのが好きってお客さんも絶対いるから!」

「その前に警吏に捕まるわよ」

「お給金二倍でも?」

「ぐっ……!?」

 リリアムが言葉を詰まらせるのを見て、ヴィオラが溜め息を吐いた。


「二倍だろうが、三倍だろうが駄目なものは駄目だ」

「ちぇー」

「わたしもその紐みたいなのは遠慮したいですが、うさぎさんだったら、もう少し続けてもいいかなと思います」

「ローザの羞恥心の基準も謎ね……あのうさぎみたいな恰好も、その紐と五十歩百歩だと思うけど」

「全然違いますよ。だって、うさぎは可愛いものじゃないですか」

 ローザリッタは曇りのない笑顔をリリアムに向けた。本気であの制服を気に入っているらしい。あれを見ている男どもには邪念しかないというのに。


「ですが、わたしたちは旅の者です。そんなに長くは働けません」

「そうだったわね。そういえば、ローザちゃんは、どうして旅をしているの?」

「武者修行です」

「……あれだけ強いのに?」

 ファムの疑問も当然だろう。

 ローザリッタは指南役候補の一人であるデストラを鮮やかに投げ飛ばした。相手が油断していたこともあるだろうが、それでも彼女に優れた技術がなければ、熟達者に技を決めるなど不可能だ。あの一瞬だけで、ローザリッタが並々ならぬ遣い手であることは素人にも理解できる。


「ええ。もっと強くなりたいんです」

「そんなに強くなってどうするの? それこそ、どこかの指南役でも目指すの?」

「いえ。ただ、守りたいんです」

「守る? 何を?」

「理不尽に抗えない人々を。私が守りたいと思った全ての人々を。それを成すだけの強さを求めて、わたしは旅をしています」

「――そっか。素敵な夢ね」

 ファムの笑みが深まった。

 地位でも名誉でもなく、ただ誰かを守るという大義のために強さを追い求める。俗物的な遣り取りが繰り広げられた後では、ローザリッタの言葉は一層尊いものに聞こえた。


「……ああ、本当に素敵」

 その輝きを反芻するように、ファムは繰り返し呟く。


 ローザリッタの背筋がぞくりと震えた。

 ――だ。

 あの時もそうだった。デストラを投げ飛ばした時も、ファムから熱っぽい眼差しを向けられた。それが、どうにもローザリッタには心地が悪い。あんなに美人なのに、あんなに綺麗な笑顔なのに――どこか、肉食獣から狙われているような威圧感を覚える。


「ファムさん……?」

「なあに?」

 にっこりとファム。威圧感が既に雲散霧消していた。蝋燭の揺らめきが見せた幻なのだろうか。


「……いえ。なんでもありません」

「そう? ああ、そうだ。ダヴァン流道場に行くって言っていたわね。よかったら、私が案内してあげるわ。まだこの街は不慣れでしょ?」

「お気持ちはありがたいですが、そこまでしていただくわけには……」

「遠慮しないで。どうせ昼間は暇だから」

 ローザリッタはちらり、とヴィオラを見た。

 いいんじゃないか、と苦笑が返ってくる。


「それじゃあ、お言葉に甘えて」

「決まりね。明日、旅籠まで迎えに行くわ。それじゃ、お先に失礼するわね」

 にこやかに笑って、ファムは席を立った。


「あ、ファムさん。行燈あんどんは――」

「大丈夫、大丈夫。私の家、すぐ近くだから」

 ひらひらと手を振りながら、ファムは夜の街へ消えて行った。



†††



 薄暗い路地裏を、行燈を片手にシニスは歩いていた。

 足取りはおぼつかない。あの後、すぐに一団は解散したが、彼は夜の街に残って酒を飲んでいたからだ。


 ――飲まずにはいられなかった。

 シニスが剣術指南役を拝命するにあたって、賂を使ったのは事実である。そして、対抗馬であるデストラの心証を下げるために、モリスト詣でを勧めたのも本当だ。そう、デストラの予測は正鵠を射ていたのである。


 シニスは彼との十年来の友情を裏切ってでも、夢であった剣術指南役を手にする機会を掴みたかった。覚悟を持ってしたことだ。しかし、いざ友からあの眼差しを向けられると――わずかながらに慙愧の念に駆られる。


 だが、賽は投げられた。もう取り返しはつかない。

 苦い思いを飲み込むのに、彼は多量の酒を要した。そうでもしなければ、今宵は眠れそうにもなかったから。


「む――?」

 シニスがふいに立ち止まった。視線の先。彼の行く手を阻むように、人影が路地の中央に立っている。


 ――まさか、デストラか?

 シニスの体に緊張が走った。しかし、彼の考えとは裏腹に影の輪郭は細い。闇が深いため男女の区別さえつかないが、少なくとも巌のような逞しい体躯をしているデストラとは似ても似つかない。


 もっとも。

 そうであってくれたほうが、彼にとっては幸福だったのかもしれないが。


「なんだ、お前は」

 尋ねても、人影から返事はない。

 その代わりに、しゃらり、と涼やかな音がした。


 それが何の音か、シニスにはわからなかった。わからなかったが、熟達の剣士としての勘が危険を告げている。彼は反射的に腰の鞘に手を伸ばした。


 シニスの太刀が解き放たれるよりも速く――邪剣が閃いた。

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