参の太刀 邪剣の閃き

第17話 三匹のうさぎ

 武術の世界では特定の何かに執着することは悪とされるが、芸術の分野ではそれこそが優れた作品を生み出す原動力だ。


 芸術家は皆、己が是と信じる美しさを徹底的に追及する。そこには一切の妥協はなく、また断念もない。微に入り細を穿ち、こだわりを貫き、命を賭けて己の美学を体現する。そういったある種の執念深さは、芸術家において最も不可欠な素質と言えるだろう。


 ただし、忘れてはならない。

 そういった執着は往々にして常識とは相反するものだということを。

 現に、目の前のを前にしたヴィオラの感想は――


「――さっぱりわからん」

「はい?」

 ヴィオラの呟きを聞き取ったローザリッタが、くるりと振り返った。

 うっすらと夕陽が差し込む更衣室で、丁寧に身だしなみを整えるその姿は、直喩的表現において――正しくだった。


 ぴょんと直立した二つの耳。お尻には丸っこいふわふわした尻尾。

 どちらも造り物ではあるが、それだけで直感的にうさぎだと認識できるのは、人間の連想能力の高さ故か。擬人化ならぬ擬化である。そう、ローザリッタはうさぎに扮しているのだ。


 しかし、うさぎを象徴とする部分はそこだけであり、それ以外の部分はうさぎとは似ても似つかない。特に衣装に至っては、まるで関連性がなかった。


 ローザリッタが纏っているのは革製の衣服である。

 足を通してから着用する、いわゆると呼ばれる構造ではあるが、彼女が身に着けているものには襟も、袖も、裾もない。艶やかな光沢を宿す漆黒の生地は、胸元から股下にかけての前面部を覆うのみで、肩や背中、太腿はあられもなく露出している。

 その上、股刳またぐりが骨盤よりも高い位置にあるため、鼠径部そけいぶに対して健全とは言い難い大胆な角度で切り込みが入っており――何がとは言わないが、見えるか見えないかの瀬戸際だった。


 娼婦もかくやと言わんばかりの煽情的な格好だが、どういうわけか不思議と愛嬌のほうが勝っている。きっと、うさぎの耳があるからだろう。人には有り得ざる獣の耳の存在が、人と獣の境界を曖昧にしているのだ。人間の形をした獣と捉えるか、それとも獣の形をした人間と捉えるか。それを考えさせるのが製作者の意図なのかもしれない。


 性に奔放である獣の在り方と、性を卑しいものと捉える人の文化。剥き出しの肌は獣性を象徴し、恥部を覆う革の衣は獣を克服した理性を象徴する。相反する価値観の融合させる試みは、なるほど芸術的と言えなくもないだろう。


 ――が、正直、一般的な感性しか持っていないヴィオラにはそのような深遠な思想は理解できなかった。胡乱うろんな表情になるのも無理はない。とりあえず、この衣装を発案、製作した人間はどこか頭がおかしかったのだろう。


「ヴィオラ、何か言いました?」

「いや、うさぎの何が製作者をここまで駆り立てたんだろうなと」

「やっぱり、可愛いからじゃないですかね。わたしは好きですよ、この耳」

 にこやかな微笑を浮かべ、ぴょこぴょことうさぎ耳を揺らすローザリッタ。本当にそう思っているらしい。貴族の令嬢らしい大らかさと言えばそうなのだが、教育を間違えたかなとヴィオラは内心で思った。


「愛嬌がありつつも、どこか華美。礼装としても通用しそうです」

「嫌だなぁ、そんな礼装……」

「それに――ふっ!」


 着心地を確かめるかのように、ローザリッタは虚空に高々と蹴りを繰り出した。蹴り上げた状態でぴたりと足を止め、片足のまま姿勢を維持する。不安定な体勢でも微動だにしないのは、鍛え抜かれた体幹の強靭さによるものだろう。


「うん。動きも阻害しない。なかなか合理的ですね」

 満足そうに頷いたローザリッタに、ヴィオラが眉をしかめる。


「……お嬢。頼むから、の前で足開くのだけはやめてくれよ」

「なぜです?」

「はみ出そう」

「え? ……ああ、さすがに見苦しいですよね」


 ヴィオラの言いたいことに気づいたのか、頬をわずかに染めたローザリッタが粛々と足を下げ、そっと股の食い込みを直した。そういう仕草にこそ、男どもはぐっとくるんだよな。そんなことを思いながら、ヴィオラが大きく嘆息する。


「しっかし、こんなのが制服とは、なんていやらしいだ。食欲よりも性欲が湧くんじゃねえのか? それと、そこ。いい加減、やる気出せ。お前が言い出したことだろうが」


 台詞の後半は、更衣室の隅っこで膝を抱えているリリアムに向けたものだ。


「……しばらく放っておいて」

 この世の終わりを迎えたような顔つきでリリアムは答えた。

 彼女もローザリッタと同様にうさぎの耳が生えている。もちろん、衣装もお揃いなのだが、あつらえたようにぴったりなローザリッタと違い、リリアムはどうにも規格が大きいようだった。


 だが、それは自然なことだ。衣服というものは基本的に余裕をもって作られる。理由は単純で、小さかったら着ることさえできないが、少々大きい分には着用に問題がないからだ。特に皮革は伸縮性がないため、入念に採寸して専用のものを作成しない限りは、どうしても隙間が生じてしまう。リリアムは華奢なので服と肌との乖離が一際顕著だ。具体的には――


「背中丸めるな。先っちょ見えてるぞ」

「えっ、やだ、本当……!?」

 リリアムが胸元を抑えながら、慌てて背筋を伸ばす。


「うう……詰め物しようかしら……」

「生々しいこと言うな。そんなに嫌なら断ればよかったじゃないか」

「言い出しっぺが断れるわけないでしょ……ふん、ヴィオラさんは良いわよね。厨房だから、こんな格好しなくていいんだから」

 悔し涙を湛えた瞳でリリアムはヴィオラをめつけた。露出の多い二人と違って、ヴィオラはいつもの侍女服だ。強いて違うところを挙げれば、前掛けの意匠が普段とは異なっていることだろうか。

 前掛けの胸元には刺繍でこう記してある。――〈青い野熊亭〉と。


「料理ができない己を恨むんだな。それに、お前らみたいな若い女ならともかく、あたしみたいな年増がそんな格好しても誰も喜ばないだろ」

「――そうかしら。このお尻は、若い娘にはない魅力だと思うけど」


 聞き慣れない声がすると同時に、ヴィオラの尻に何かが這い回る感触が走った。唐突な刺激にびくりと両肩が跳ねる。


「きゃあ!?」

「……意外。ヴィオラさんでもそんな声出すんだ」

 本当に意外そうな顔をするリリアム。

 思わず嬌声を上げてしまったことが恥じているのか、ヴィオラが顔を真っ赤にして背後を振り返ると、そこには妙齢の女が立っていた。


「ファムさん、いつの間に……」

 唐突に現れた女に、ローザリッタは驚きの視線を向ける。接近にまるで気づかなかった。熟達の剣士三人の感知を欺く見事な隠形。


「ふふ、存在感を消すのは得意なの。飲食店において、主人公はお客様。給仕たるもの優雅に、謙虚に、ひっそりと――ってね」

 女は先ほどまでヴィオラの尻を撫で回していた手をひらひらさせ、悪戯っぽく片眼を瞑った。


 女――ファムは食事処〈青い野熊亭〉の看板娘だ。

 歳は二十歳前後だろうか。亜麻色の長い髪に淡褐色の双眸。柔和な容姿で、全身からおっとりとした雰囲気が滲み出ており、いかにも隣の優しいお姉さんと言った感じだ。


 ただし、その肉体は凶悪の一言に尽きた。

 はち切れんばかりの乳房に、きゅっと括れた腰。たっぷりと脂の乗った臀部に、むっちりとした太腿。前から見ても横から見ても、豊かな稜線が視界に飛び込んでくる。女の柔らかさをぎゅっと濃縮したような魅惑的な肢体。

 それが何故わかるかと言えば、彼女もまただったからだ。


「優雅に謙虚にひっそりと、ねぇ……こんなあざとい衣装で客の気を引こうって店の看板娘がよくもまあ、いけしゃあしゃあと……」

 尻を庇いながら半眼で睨むヴィオラに、ファムは肩をすくめた。


「仕方ないでしょう、近所に競合店ができちゃったんだから。遠のいた客足を取り戻すには、ちょっとくらい強引にいかないと。それよりも――」


 ファムはつかつかとローザリッタとリリアムに歩み寄り、めつすがめつ二人の姿を観察すること暫し。ぐっと親指を立てる。


「ローザちゃん、似合っているわよ! やっぱり凹凸のはっきりした体型だと衣装が映えるわね!」

「ありがとうございます」

「リリアムちゃんもとってもいいわよ! 幼い躰にその露出度。背徳的な感じが堪らないわ! おねえさん、禁断の扉が開いちゃいそう!」

「ぶっちゃけたわね……どうせ細いだけが取り柄の幼児体型ですよーだ……」


 朗らかな笑みを返すローザリッタと、暗い自嘲を浮かべるリリアム。

 本人たちの内心はともかく、三者三様の魅力のあるがこうして目の前に揃うと、なるほど、華やかなもんだとヴィオラは感心した。――自分は絶対に着たくないが。


「さ、もうすぐ開店よ! じゃんじゃんお仕事してね!」

「はい! 初めての試みですが、頑張ります!」

「……帰りたい」

 ファムに手を引かれるまま、ローザリッタとリリアムは対照的な表情で更衣室から出ていった。


 残されたヴィオラは小さく溜め息を吐いた。

「じゃ、あたしも厨房に行くか。それにしても、お嬢が労働とはねぇ……いやはや、何が起こるかわからないもんだ」

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