第25話

 その日の朝餉を食べた後、八兵衛はらしくもなくぼうっと空を見上げた。

 円乗寺の縁側である。よもや、またも世話になることになろうとは。人の手を借りるのを何より厭う八兵衛は、焼け出されて致し方なしとはいえ仏心に縋るのも耐えがたいことであった。それを妻子の為と堪え、一刻も早く元の暮らしに戻れるように骨を折り身を砕いたのだ。

 それが――どうしてこんなことになってしまったのか。狐につままれたとはこのような心持ちであろうか。

「あんた、準備はできたのかい」

 呆け、とりとめのないことを考えていた八兵衛を我に返らせたのは、長年連れ添った妻であった。八兵衛はオウ、と気のない返事をする。

「なんだい、しっかりしとくれよ。あんた、今日は――」

「わかってらい」

 まるで拗ねた子供のように振る舞う夫にお峰は嘆息する。大黒柱がこの調子でどうする。だが、無理もないことであった。何しろ今日は、愛娘お七がいよいよお白洲で裁かれるのである。

 ――どうしてこんなことになってしまったのか。お峰も内心、まったく同じ想いを抱いていた。

「……あたしゃ、育て方を間違えちまったのかね。あの子があんな恐ろしいことをするなんて」

 ぽつり、とお峰が呟く。八兵衛は妻の顔を見た。

「あの子は……あの年末の火事があるまではどこに出しても恥ずかしくない娘に育てたつもりだったよ。それが、どうして。あたしゃ何を間違えたんだ」

「止せ」

「あたしゃ、あたしゃ……」

 八兵衛はお峰の肩を抱き寄せた。お峰は男勝りと称された顔を崩して、夫の胸の中でしくしくと泣いた。八兵衛は黙って妻の涙が枯れるまで抱き続けた。


 お七の両親が到着し、お七から少し離れた御座に座るのを確認し、中山は今一度口書くちがきを読み返した。

 奉行に対しては老中の意向を伝えてある。いくら吉三郎がどうこう言おうと、所詮はごろつきの戯れ言である。しかし、奉行はあまり良い顔をしなかった。いくら老中殿の箴言といえど、と罪を誤魔化すことには難色を示す。

「では、申し渡しの中でその娘に齢を問い質しましょう。それでもし、娘が正直に齢を答えれば正しく判決を下せばよろしい。しかし、娘が齢を若く偽ったときは」

「判った、判った。しかし中山殿、貴殿もいやに執心される。其の方、娘といえど罪人ぞ」

 奉行の疑念に中山は答えられず、苦虫を噛んだ表情をするほかなかった。

「其の方、八百屋の娘お七」

「はい」

 白洲の場においても、お七は一層気丈であった。

 牢の中におかれたのが体に障ったか、顔色は青ざめ、頬はこけてやつれてしまっている。うら若い身でありながら白洲に座っている姿は見る者の同情を買った。しかし、声を震わせながらも毅然と奉行の言葉に答えている。どうしてこんな娘が、とその場に居た誰もが思わずにいられなかった。

「其の方が己の家であり、そこな八兵衛の八百屋に火付けをした。間違いないか」

「待ってくだせえ。私の娘は――」

 身を浮かせて反論しようとする八兵衛を同心達が制する。無用な手出しは八兵衛までも罪人にしかねない。

「……その通りでございます。このお七が火を付けました」

 取り調べの中で何回と口にした言葉である。最早変えようがない過去の過ちを口にするたび、お七の胸は強く締め付けられた。

「うむ。火を付けたのち、消す試みもせず一人外に逃げ出したと聞く。これは――」

 奉行の尋問は粛々と続いた。中山は奉行の顔をちらりと横目で見た。慣れているのだろう、お七の様子に対して動揺したそぶりを見せない。ああは言ったものの、中山自身期待はしていなかった。老中にも既にごろつきに始終を聞かれてしまったこと、それで市井を騒がせるようなことをほのめかされたことを伝えた。中山の甘さを叱咤されたが、老中も半ば諦め半分のようだった。

 それでも――どうにかならぬものか。頭をよぎる吉三郎の憎たらしい顔と、お七の悲壮な表情を比べてなおも考えてしまう。正直に答えれば死罪、嘘を吐けば死は免れる。清廉潔白に生きてきた中山にとっては如何ともしがたい葛藤であった。

「其の方の所業、天下に置いて何人たりとも許されぬ大罪である。如何なる仕打ちも覚悟できておろうな」

「はい。……腹をくくって参りました」

 お七の両親が頭を地につけて泣いている。中山も耐え切れなくなり、こうべを垂れた。そして、奉行はいよいよ件の問いを口にした。

「……差し当たって、最後に問おうぞ。其の方の罪、火罪は火刑を以って罰さねばならぬ。だが……もしも其の方が成人であらねばそうはいかぬ。遠島、もしくは奴婢とするのが妥当。して、其の方の齢、今年で何歳となる」

「………………」

 お七が息を呑み、動揺するのが気配からも伝わってきた。迷うているのは明らかだった。

 これを拒む道理などあるはずもないのだ。お七は十六と聞いているが、背は低く、顔つきも幼く見えたため、十四と言い張っても無理なく通ろう。遠島も身分替えも勿論容易い罰ではないが、それでも死ぬに比べれば耐えられよう。中山は顔を上げ、お七を見た。お七の両親も固唾を飲み、娘の姿に見入っている。

「……わ、わたしは……」

 長い長い逡巡に口を閉ざしていたお七がようやく声を発した。

「――今年で十六になります。間違いございません」

「偽りはないか。まことにそう申すのだな」

「ええ――」

 奉行に頷き、お七は小さい声で洩らした。


 ――こればかりは誤魔化せません。これだけが、唯一ただひとつのまことですもの。


「……よろしい。では、申し渡そうぞ。八百屋お七、其の方市中引き回しの末火あぶりとす。良いな」

「はい」

 裁きが下された。

 お七は深々と頭を下げ、自らの定めを受け入れた。

「ああ――」

 どうしてこんなことになってしまったのか。中山は誰にも悟られぬよう、再び頭を垂れて嘆いた。

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