第5話
日が暮れた後も、お七は未だ夢見心地のままだった。
(ああ、佐兵衛さま、あの美しい人……もう一度お会いして、お話することはできないかしら)
そんなことを考えながら手を動かすものだから、繕い物でとんちんかんなところを縫ったり夕餉の準備で茶碗を割りかける。しまいにはお峰に熱でもないかと額に手を触られた。
「まったくどうしちまったんだい。流行り風邪でも拾ってきたかね」
実際、お七は熱を入れていたし、熱が上がっていた。もっとも、それが初恋の熱であることは、お七が恋愛嫌いだと思い込んでいた八兵衛やお峰にはわからぬことだった。
「おや、お前、その手に握っているものはなんだね」
八兵衛が見咎めたのは、あのとき佐兵衛に刺さっていた棘を抜いた毛抜きである。
「あら。これ、おっかさんのものかしら」
「いやだ。そりゃ坊様に借りたものだよ。お前ったら返さずに持っていたのかい」
たかが毛抜きとはいえ、返さなければ泥棒も同じである。早く返しに行かなければ、と思った途端、お七の胸に不純な想いがむくむくと湧いてきた。
「……わたし、返しに行ってくるわ」
「これお七、もう夜更けだぞッ」
毛抜きをしっかり握りしめて部屋から飛び出す。面食らう両親には見向きもせず、裾がはだけるのも気にせず廊下を駆けた。
月明かりでようやく自分の足元が見えるほどの夜更けに、何人もの檀家を受け入れてもまだ有り余る広さの円乗寺。常であれば夜明けまで探し回っても意中の人と出会うことはできなかっただろう。
しかし運命の悪戯か、はたまた御仏の思し召しか。そのとき丁度佐兵衛も夜風にあたろうと庭を歩いているところだった。
「佐兵衛さま……」
「……お七、さん」
朧月に照らされる佐兵衛の肌はますます白く映り、まるで今しがた空から下って来たばかりの天人のように見えた。お七は思わず溜息をつき、しばし言葉を失った。憂い気な眼差しも、月に光るつややかな頬も、すべてがこの世のものとは思えぬ美しさだった。
「佐兵衛さま」
お七は彼の美しさに結局どんな言葉もかけることができず、ただそっと近づくことしかできなかった。佐兵衛も口をつぐみ、しかしじっとお七を見つめ、おずおずと手を伸ばした。お七はたまらず、昼間棘を抜いた時のように佐兵衛の手を掴んだ。
どれほどそうしていただろうか。言葉を一切交わすことなく、ふたりはあくまでお互いを見つめていた。口にするまでもなく互いの想いは明白であった。このまま夜が明けることなく、永久にいられれば。
「わたしは今年で十六になります」
ふいに佐兵衛が呟くように言う。お七はわあっと嬉しくなり、顔を綻ばせて答えた。
「わたしも、十六になります」
同い年である。たったそれだけの些細なことが今のお七には飛び上がらんばかりの吉報だった。
「いっしょですね、わたし達」
「ええ」
佐兵衛も目を細めた。しかしふと我に返ったように顔をしかめ、再び憂い気な顔になった。
「……いけません。わたし達が、こうして連れ立って居るのを見られたら」
「え……」
目を伏し、そろそろとお七からて手を離す。なぜ、と声にならない声で訊ねるお七に、佐兵衛は静かに首を振った。
「わたしは若衆でございますから。既に契りを交わした兄分の帰りを待つ身です。ほかの方と、それもうら若い女性と居たと和尚様や兄分に知られれば」
お七もはっとする。自分も、今日会ったばかりの男と共に居るところを見られたら、両親達が黙っていないだろう。操が危ういとさっさと縁談を決められてしまうかもしれないし、素行の悪い娘と思われて酷い折檻を受ける羽目になるかもしれぬ。八兵衛もお峰も堅実で、「お七に悪い虫がつく前に、身持ちと素性がしっかりした人のところに行かせよう」と毎朝毎夜口癖のように言っていた。昼間のお峰が佐兵衛に渋い顔をしていたのを思い出す。
お七はそこで初めて自分が佐兵衛に恋をしているとはっきり自覚した。そして、その恋が成就することは、鯉が滝登りをするよりもずっとありえぬことであると悟った。
「佐兵衛さま……」
縋るように見つめても、吉三郎は切なげに形の整った眉をひそめて首を振るばかりである。お七は居ても立っても居られずもう一度佐兵衛の手に触れようとしたが、肌と肌が触れる直前で遠くから声が聴こえてきた。
「お七や、お七や……」
母の声である。飛び出していったきり一向に帰ってこない娘を心配したのだろう、探し求めてこちらへ歩いているようだった。このままでは、彼と一緒に居るところを見られてしまう。佐兵衛は悲しげにお七を一瞥して、逆の方向へと歩きだした。
「さようなら、可憐な人。またいつか、まみえることがあれば――」
「佐兵衛さまっ」
去っていく佐兵衛を、やはりお七は追うことができなかった。近づいてくる母の声を聴きながら、遠ざかっていく想い人の背中に見入る。
「――美しい人」
手の中に残った、結局返すことができなかった毛抜きをぎゅうっと懐に抱きしめ、母親が来るまでその場でじっと立ち尽くしていた。
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