第19話

 ごうごうと、空をも焦がさんばかりの炎が一軒の店を包み込んでいた。

 燃えているのは他でもない。八兵衛の店、本郷の八百屋である。

「誰かっ、火を消してぇッ」

「水汲んでこいッ、燃え移っちまうぞッ」

「火消しを呼べッ」

 泣き喚くもの、家財を担いで逃げ出す者、調達してきた水を懸命に炎にかけて消火を試みる者。静かだった夜の江戸は一転喧噪の渦に飲み込まれた。恐慌している町人からさらに正気のたがを奪うように半鐘の鳴る音がする。

 さながら地獄の様相を呈する八百屋をなすすべなく見守る野次馬の中に、吉三郎はいた。

「な――」

 一体どれほどの間燃える店を眺めていただろう。まる一日そうしていたようであり、たった今来たばかりのようにも思える。紅蓮の光に目を奪われた吉三郎には時の流れもわからなくなっていた。

 楽しい夜であった。なんとなしに久々に賭けに混じってみたら、これが大当たりしたのだ。浮かれて酒盛りを始めて、日が暮れた後もまったく飽き足らず、益市や犬次を誘って飲み屋に繰り出したのだ。わあわあ騒ぎながらあちこち店をはしごして、安酒や肴に不味い不味いと文句をつけたり、犬次のどじにげらげら笑ったり、楽しかったはずなのだ。ああ、楽しかった。

 すっかり千鳥足の益市が妙なことを言いだすまでは。


 ――兄貴、なんか向こうが騒がしいですねえ。


 ――なんだあ。手前、酔いが耳にまでいったかよ。


 ――違いますよう。ほら、聴こえてくるでしょ。八百屋がどうとか……あッ。


 ――兄ぃ、煙だ。


 ――なんだありゃ、火事だよ。燃えてるじゃねえかッ。


 湧き上がる煙を見た途端、酔いはすっかり覚めた。気が付くと、矢も楯もたまらず走りだしていた。このあたりで八百屋といえばあの店のほかない。……果たして、八兵衛の店がごうごうと燃えていたのだった。

「兄貴、早くずらかりましょうよ」

 立ち尽くしていると、益市が袖を引いてきた。

「ここにいると火の粉が飛んできやがる。それにもうすぐ火消しやら同心やらが来ますよう。俺等おいら達みたいなのがいたら、きっと火事場泥棒だって決めてかかるんだ。ね、ろくなことになりゃしません」

「怖いよう。いやだよう」

 犬次は子供のようにぶるぶる震えている。しかし吉三郎は引き返すどころか一歩踏み出した。

「手前らはそこにいろ」

「へぇッ」

「兄ぃ、どこ行くのっ」

 困惑するふたりを置き去りに、吉三郎は一歩、また一歩と八百屋に近づいた。火がじりじりと吉三郎の肌をあぶり、汗が噴き出す。危険極まりない。どうしてこんなことをしているのか、吉三郎自身にもわからぬまま動いていた。

 ――否。

 心当たりがあったのだ。考えるだに恐ろしい、火の出所の。

「おい」

 吉三郎は八百屋の主人、八兵衛に声をかけた。丁稚達が汲んできた水を何度も炎にかけ、汗だくになっている。

「なんだッ。お前、こんなときに何しに来やがったッ」

 手助けかと思いきや、やってきたのは娘を誑かしたあのにっくきごろつきである。八兵衛は汗を手で拭いながら吉三郎を睨みつけた。

「手前の娘はどうした」

 吉三郎も負けじと凄んでみせる。

「娘だあ。何を――――ああッ」

 訝しんでいた八兵衛はすぐに血相を変えて明後日の方を向く。視線の先では、女中達を連れたお峰が不安げに家を見つめている。

「母さん、お七はどうしたッ」

「あ、あんたも知らないのかいッ。姿が見えないんだよ、いくら呼んでも出てこないんだッ」

 こめかみから浮いた汗がつうっと顎まで垂れた。

「畜生ッ」

 吉三郎は悪態を吐くと、丁稚が持っていた水桶を奪って頭から水を被った。

「おい、お前何する気だ」

「うるせえ、手前の娘だろうが。死んでもいいってのかッ」

 めちゃくちゃなことを言いながら八百屋の中に入っていく。熱い。外にいるときも尋常ではなかったが、火の中に囲まれているのとは比べ物にならない。うかうかしていると煙に巻かれ、鰹節のようになってしまうだろう。お七はどこだ。袖で口元を抑えながら辺りを見回す。汗と涙で目が潰れそうだ。

「お七ぃッ」

 煙にむせながら叫ぶ。返事はない。あったとしても、火の音でかき消されてしまうか。吉三郎はがむしゃらに前に進んだ。

「お七、どこだ。お七ッ」


 ――いっそのこと手前が火付けでもすりゃあいい。


 まさか、そんなことできるわけがないと思ったから言ったのだ。十六の娘が、世間知らずのお嬢ちゃんが、そんな大それたことするわけがないと。

 しかし――ならば何故この家は燃えている。お七は一体どこに姿を消したというのだ。

「ありゃあ冗談だ。本気にするとは思わなかったんだよ」

 吉三郎は誰にともなく呟いた。

「手前だってよう、して良いことと悪いことの区別くらいつくんじゃねえのか。ごろつきだって滅多にしやしねえんだ。がきがやることかよ」

 泣き言である。今更言ったところでどうなるというのか。いや――そもそもお七が何をしようが、吉三郎には最早なんの関わりもないことである。馬鹿な冗談を本気にして、それで火に巻かれたところで痛くも痒くもないのだ。

 俺ぁ一体何をしてるんだ。

 喘いだ拍子に煙を深く吸い込んだ。気分が悪くなり、その場にへたり込む。火が今に吉三郎も食ってしまおうとじりじりと近づいてくる。お七どころか、自分の身も危ない。逃げ出そうにも、体が上手く動かなかった。煙を吸ったせいか、眩暈がして立ち上がれない。

「畜生」

 吉三郎は再度悪態を吐いた。万事休すに他ならなかった。

 呆気ないものだった。終いとは、これほどあっさりと訪れるものなのか。あの大火を生き延びて、結局火に巻かれて終わるのだからお笑い種である。

「お七」

 ああ、後ろがやかましい。やっと火消しが到着したのか。遅ェよ、と小さく笑って、吉三郎は目を閉じた。

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