第18話

 夕闇に染まった江戸の町を若い娘が駆けていく。

 奇妙な様子だった。纏っているのは晴れの日に着るような赤い振袖であったが、襦袢の上から羽織るばかりで帯も締めていない。こんな時間にどこへ行こうというのか、汗だくで息を切らしながら必死に走っている。借金取りにでも追われているような、異様な顔である。

「おおい、お嬢ちゃん。そんな恰好でどこに行くんだね」

 見かねた通りすがりの町人が声をかける。ただでさえはしたない恰好で、薄暗い中を独り歩きとはあまりに不用心である。しかし娘は自分の恰好を気にする風もなく、息切れで声にならない声で答えた。

「……か、火事なんです」

「火事ぃ」

 面食らう町人に、娘は同じ言葉を繰り返した。

「火事なんです。家が、わたしの家に火が」

「火事って、お前さん」

 ついこの間の大火に遭って、火元に用心しない江戸っ子はいまい。便乗した火付けがないか、同心達も目を光らせているはずである。しかし冗談にしては娘の顔は真剣だ。必死な形相で何度も訴えてくる。

「本当なんです。このままじゃ危ないの。早く逃げて。早く――知らせないと」

「お、おいおい」

「早く、早くしないと。……鐘を、鐘を鳴らさないと。鐘を鳴らしてッ」

 どうも尋常ではない。まるで気狂いのようだと困惑する。娘は話が通じないと見るとまた駆け出そうとする。行く先は火の見櫓であろうか。

「早く、早く。鐘を鳴らして。早く逃げてッ」

「ま、待ちなよ嬢ちゃん。とにかく、その恰好はよう……」

 せめて帯でも貸してやろうと引き留める。と、娘が走ってきた方向から何やらどよめきが聴こえてくるのがわかった。

「おいっ、火事だぞッ」

「八百屋だよッ。誰か、火消しを呼んでぇッ」

 日が沈んだはずの空が朱色に照らされている。家と家の間から立ち上る黒煙が、もうもうと天高く昇っていく。そして聴こえてくる怒号と悲鳴で、その町人もやっと娘の言葉がまことのものであったと気が付いた。

「ひ、ひえええっ」

 仰天して腰を抜かす。呼び止めた娘はそんな町人をほとんど見向きもせずに再び走りだした。

 娘――お七の内心は言いようもない程に荒れ果てていた。

 こうなってみると、どうしてあんな向こう見ずなことをしてしまったのか自分で自分がわからない。行灯を倒し、部屋を抜け出すまではまるで何も感じていなかったのに、外から燃える我が家を見上げてようやく自分がしでかしたことの恐ろしさを実感したのである。後悔を先に立てることはできない。不思議なもので、何もかも手遅れになってしまってから良心や後ろめたさはやってくるものなのだった。

(ああ、ああ、どうしたらいいんだろう)

 火付けがどんなに罪深いことか、さしものお七も知らぬわけではなかった。

 大火ももうふた月前のことになるのか。自分の生まれた家が、見知った店が、町並みが、一緒くたにごうごうと燃えて跡形もなくなっていく様を、父と母に抱きしめられながらお七もしかと見ていたのである。逃げ遅れて火中に消えた人は沢山いた。八兵衛の店に通っていた丁稚や女中も何人か巻き込まれた。大勢の人の命が奪われ、遺骨も見分けられず供養することもままならないのはあんなに心苦しいことだったとは。ああ、どうして忘れていたのだろうか。火事ほど恐ろしいことはないというのに――。

 建て替えたばかりの家であった。いくら大店といえど、建てるのに相当な金が要ったはずだ。「少し余裕はなくなったが辛抱しておくれ」と父が言っていた。失った分を取り返そうと奔走し、ようやっと商売を再開させて喜んでいた八兵衛の姿を見ていたはずなのだ。

 父と母は今頃どうしているだろう。無事に逃げだせただろうか。まさか火に巻かれてはいないだろうか。不安で仕方がなかったが、引き返して確かめるのも恐ろしい。何しろ、自分が火付けの張本人なのである。最早向けられる顔はない。

(おとっつぁん。おっかさん。ゆきちゃん。ああ、ああ、どうしよう、わたし)

 しっちゃかめっちゃかの頭のまま走り続ける。とにかく、早く火を消してもらわないと。このままではまた大火になってしまう。大火になってしまったら。


 ――佐兵衛さま。


 想い人の顔が浮かび、お七は足を止めた。そうだ――自分はあの人に会いたくて、だからあんなことをしてしまったのではないか。

 火事になればまた円乗寺に行ける。また、あの人に会えるから。

 ああ――だけど。こんなことをして、一体どの面下げて会いに行くというのか。

(佐兵衛さま)

 優しい人である。直接関わりのないことであっても、自分のために起こったことと知ればきっと胸を痛めるであろう。巡り合わせが悪ければ、何の罪もない佐兵衛が責められることになるかもしれぬ。そうなったら……お七は目の前が暗くなっていくような気持ちになった。

 なんとかしなければならぬ。これ以上取り返しがつかなくなる前に。

 すっかり走り疲れ、棒のようになった足で火の見櫓の方へ向かう。既に火事は騒ぎになっていて、半鐘がひっきりなしに叩かれている。屯所に詰めていた火消し達が現場に向かおうと走っていく。

「おい、嬢ちゃんよ。何ふらふらしてんだあ」

 火消しの一人らしい荒々しい顔つきの男がお七を見咎める。いかにも柄の悪い歩き方で詰め寄るが、その尋常でない装いとぼろぼろと涙を流す様にぎょっとして目を見開いた。

「な、なんだッ。どうしたってんだようッ」

「わたしです」

 お七は掠れた声で答えた。

「わたしが――お七が火を付けました」

 半鐘が狂ったように鳴り続ける。煙はもうもうと空へと昇っていく。人々は混迷のまま右往左往している。

 弥生は二日、強い風が吹く夜のことであった。

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