第17話

 八兵衛一家はてんやわんやの状態であった。

 八兵衛もお峰もまさか自分の娘がどこの馬の骨とも知れぬごろつきに騙され、銭を奪われているとは思いもよらなかったのである。もっと注意しておけば、よく見てやっていればと後悔しても時すでに遅し。お七は身の回りのものをほとんど質に入れ、明日の着替えにすら困る程になっていた。

「お七、お前は騙されていたんだよ」

「あいつはろくでなしなんだ。何を言われたか知らないが、全部嘘っぱちなんだよ」

 ふたりは口々にお七に説いたが、当の娘はすっかり魂を奪われたように茫然としている。懸命に話しかけても、耳に入っているかも怪しい。娘の哀れな姿に両親はますます吉三郎への怒りを滾らせた。

「あいつめ、あの疫病神。情けをかけてもろくなことをしない。今度店に来たらただじゃおかねえぞッ」

「まさかあの若衆を騙ってお七を誑かすなんて。ああ、まったく、あたしは一体どうしたらいいんだい」

 お峰はにっくき吉三郎からの文を燃やしてやろうとお七が隠し持っていた文を取り上げた。すると、人形のように虚ろになっていたお七は突然わあっと泣き出した。

「だめ、だめ。取らないで。それは佐兵衛さまのなの。持っていかないでッ」

「お七や……」

 文の山に縋り付き、わあわあ泣き崩れるお七にお峰はなんとも言えぬ心持ちであった。まさかあのお七が男にこんなに入れあげるとは。あれは吉三郎の嘘だとなんど言っても聞き入れないのである。しかし、これ以上お七から“佐兵衛”を奪えばそれこそどうなることかわかったものではない。切なさに心を病み、余計におかしなことをするやもしれぬ。お峰は文を取り上げない代わりに、お七をしばらく部屋の中から出さないようにした。

「少し、ゆっくり休むが良いよ。お前はおかしくなっちまってるんだ。落ち着けば、ちゃんと本当のことがわかるようになるだろうさ」

 ゆきも大変お七を心配した。もっと早くに自分が気づいていれば、と友人として責任を感じずにはいられなかったのである。自分の店の手伝いもそこそこに、しょっちゅう八兵衛の店を訪れてはお七を見舞った。

「犬に噛まれたようなものだわ。お七ちゃんにはもっと良い男が似合うのよ。素敵なご縁があるはずなんだからッ」

「でも、わたしはあの方が……」

 励ましても同情しても、一向にお七が元気になる様子はない。そのうち、お峰や八兵衛から「あんまり話しかけても藪蛇だから」と止められ、お七を訊ねるのも憚られるようになってしまった。

「お七ちゃん……」

 変な気を起こさないと良いのだけれど、とゆきは店の外からお七を心配することしかできなかった。


 まるで暗闇の中に放り出されたような心地だった。

 お七にとって佐兵衛からの文は最早何よりも代えがたいものとなっていた。毎朝毎夜、佐兵衛の文を読むことだけが楽しみで、佐兵衛に出会う以前は果たしてどんな風に暮らしていたのかまるで思い出せない。自分のものを売り払うのもまるで苦ではなかった。佐兵衛のためならばなんだってできたはずなのだ。

(佐兵衛さま)

 お天道様が消えたような世界でお七はひたすら愛しい人を想った。今頃あの方はどうしているのだろう。ずっと、ずっと続けようと誓ったのに、わたしのせいで。怒っているだろうか。悲しんで、傷ついているのだとしたら、そう考えるだけで胸が張り裂けそうだ。

 佐兵衛は繊細で純粋な人だった。文から知れる人柄は、見た目以上に涼やかで優しく、それゆえ人一倍苦悩を抱えてもいた。武家や衆道のことはわからない。ただの小娘には話を聞く以上のことはできない。ただ、「あなたに読んでもらえて嬉しい」と佐兵衛がしたためるたび、お七は切ない気もちになった。

(佐兵衛さま)

 吉三郎から言われた数々の暴言を思い出す。いや――結局自分はそこまではできなかったのだ。どんなに佐兵衛を好いていると言っても、そのために自分の体を売るようなことや、親に逆らって非行に走るような真似はできなかった。恐ろしかったのだ。佐兵衛を想う気持ちより、我が身の可愛さが上回っていたと気づいたお七は、だからそんな自分の卑怯さに呆れ、絶望していた。

(佐兵衛さま、佐兵衛さま)

 ああ――口惜しい。もどかしい。愚かしい。どうして、どうして、どうして自分は。佐兵衛を好きだなんて嘘だったのか。いや、いや。そんなことはない。そんなことはないのだ。ただ、でも、結局。――自分にできることはもう何もないのだ。


 ――好いた男に会いたいんだ、そのくらいはできるんじゃあねえか。


 吉三郎の言葉がこだまする。何ができるというのだろう。わたしは、わたしには何も――


 ――もう一度火事が起きりゃあ、きっとまた会えるんだろうぜ。


 顔を上げると、行灯の明かりが目に入った。いつのまにか母が点けてくれたらしい。木枠の中に入れられた油皿で灯明が煌々と光を放っている。真っ暗闇だったお七の世界はそこだけほのかに明るかった。

(まぶしい)

 お七は行灯に手を伸ばしかけ、ふと手を止めた。ああ、間違いなく火が燃えている。吉三郎の声が延々と頭から離れない。

(佐兵衛さま)


 ――いっそのこと、手前が。


(佐兵衛さま。佐兵衛さま)


 ――惚れた男に会いたいだけの悪事なら。


(佐兵衛さま佐兵衛さま佐兵衛さま)


 もう一度、火事が起きれば。


(佐兵衛さま佐兵衛さま佐兵衛さま佐兵衛さま)


 指先で行灯を押すと、かたん――といともたやすく横倒しになった。

 たったそれだけで充分であった。

 皿から漏れた油は床に広がっていき、それを追うかのように火が瞬く間に走っていく。暗がりに染まっていたお七の部屋はまばゆいほのおで包まれた。ごうごう、ごうごうと、行灯の木枠を、畳を、布団を掻巻を、障子を壁を天井を、無尽蔵に広がっていく――。


 ――佐兵衛さま。


 ああ、いけない。こんな恰好じゃ。お七はふと自分が襦袢しか着ていないことに気が付いた。替えの着物はどこにあったか、と探す。ほとんど全部売り払ったはずであったが、一着だけ残していたのを思い出したのだ。

 行李の中に押し込んでいた赤い振袖を身に纏い、お七は部屋から飛び出した。火はあっという間に部屋を飲み込み、店を、ひいては江戸の町をも腹に収めんと暴れ出した。


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