第16話

 お七に限界が訪れるまで、そう長い時間はかからなかった。

「………………」

 お七は財布を握りしめ、黙り込んでいた。ほとんど襤褸のような古着を纏い、やつれた顔をしている。

「なんだよ」

 吉三郎はひどくぶっきらぼうな口調で言う。

「言いたいことがあるなら言いやがれ。黙ってるんじゃあわからねえだろうが」

「出せないんです」

 ぽつり、と小さな声でお七。

「もう、出せる御銭はありません」

「はっ、」

 すっからかんの財布を見て、吉三郎は鼻で笑った。

「そうかい、そりゃあ大変だ。で、なんだ。それがどうしたってんだよ、ええ」

「もう、あなたに御銭は渡せません」

「そうだろうなあ」

「文を」

 お七は真っ青な顔で、声を震わせながら懇願した。

「あの方に、文を」

「おいおい、嬢ちゃんよう」

 ずい、と吉三郎がお七に一歩近づいた。その顔は酷く険しく、お七はびくりと震えた。

「忘れたのかい。俺ぁ、手前から銭を貰う代わりに手前らの文の仲立ちをやってたんだ。銭はないから払えない、だからただ働きをしてくれってか。冗談もほどほどにしやがれよ」

「で、でも」

 がくがく震えながら首を振り、お七はなおも続ける。

「わ、わたし、あの方がいないと駄目なんです。あの方がいなくなったら生きていけない。耐えられませんッ」

「それがどうしたッ」

 吉三郎の恫喝。

「手前の事情なんか知ったことかよ。良いから銭を出せッ。俺ぁよう、手前が銭を出すから今までこんな七面倒なことをしてやってたんだぞ。銭だ、銭なんだよ。はなから手前がどうなろうとどうだっていいんだ。手前なんざただの金蔓だッ」

 金蔓――吉三郎にとってのお七とは、最初からその程度の存在でしかないのだ。

 大店の娘だか町一番の美少女だか知らないが、お高く留まって人を見下したわがまま娘。利口ぶってはいるが世間知らずで、甘い言葉と都合の良い話を疑いもせず信じ込む。生まれてこの方食うに困ったことも人に騙されてどん底に堕ちたこともない幸せ者なのだ。葱を背負った鴨とはこのことである。吉三郎のような悪人にとっては格好の獲物であった。

 だから、搾れるだけ搾り取って、最早何も出せなくなった獲物かもになど興味はない。搾りかすなど不要だ。さっさと切り捨て、別の収入源を探すのみである。

 同情して仏心を出したりすることなどありえず、よもや愚かで盲目で干支も一回り違うような小娘に慕情を抱くなど――万が一にもあるわけがないのだ。

「も、もう無理なんです。一文もありません。無い袖は振れないんですッ」

「言ってることがしっちゃかめっちゃかだよ。金がねえなら諦めろ。諦めたくねえなら金を出せ。どっちかしかねえんだよ。どうするんだ。どうしたいんだよッ」

 がん、と吉三郎が壁を蹴飛ばした。ひと気のない裏路地、いくら騒いでも寄ってくるのは腹を空かした犬猫くらいのものである。

「そうだ、手前の店があるじゃねえか。大店なら金なら腐る程あるんだろうよ。親父に頼むなり、なんだったら少しくらい持ち出してもバレやしねえだろ」

「そんなッ、そんなこと――」

「なんだったらよう、手前みてえな小娘が方法なんていくらでもあるだろうが。ええ、まだまだならたんと持ってるじゃねえかよ」

「――――――」

 絶句。それは、お七にとってはそれこそ世間話や作り物の世界にしか出てこないようなであった。

「……い、いや。わたし、そんな……そんなの……っ」

「できねえのかよ」

 震えることしかできないお七に、吉三郎は静かに言った。

「手前にとっての“佐兵衛さま”は、その程度の男だったんだな」

 これ見よがしに大きな溜め息をつく吉三郎に、お七は螺鈿の瞳から大粒の雫を零した。

「金がねえ、稼ぐこともできねえと来たら、もうなすすべなしだな。俺ぁ暇じゃねえ。愛しの佐兵衛さまに会いたきゃあ手前でなんとかするんだな。寺に行けば顔だけは見れるんだからよう」

「………………」

「大火の縁で会えたんだったか。だったらもう一度火事が起きりゃあ、きっとまた会えるんだろうぜ。もう春前じゃあ火事もそうそう起こるめえがな」

 と、そこで吉三郎はいかにも名案を思い付いたという風に言った。

「そうだ、いっそのこと手前が火付けでもすりゃあいい。好いた男に会いたいんだ、そのくらいはできるんじゃあねえか」

「えっ……」

 吉三郎の下卑た笑顔を、お七は食い入るように見つめた。

「何、誰が付けたかなんか早々ばれやしねえよ。それこそ仏様でもなけりゃあなあ。物盗りでも人殺しでもねえ、惚れた男に会いたいだけの悪事なら、仏様も一度くらいは見逃してくれるだろうよ」

 木造の家屋が密集している江戸の町は火事とは切っても切れない縁にある。

 天和の大火以前、そして以降も江戸では頻繁に大火災が起きている。江戸の町には職を失った貧乏人、困窮した無宿人も数多くいた。やけっぱちで恨みのある奉公先に火を付けたり、火事に乗じて盗みを働くような者もいて、火種には事欠かなかったのである。特に冬は北からの強いからっ風により、密集した家々は恐ろしい程の勢いで火が燃え移っていき、死傷者の数も甚大となった。

 だからこそ、火付けは大罪として、咎人は市中引き回しの末火あぶりにされるのが常であった。咎人に家族があるならばそれらも奴婢に落とされたり、島流しにされるのである。お七のような若い娘であっても、それらを免れることはできないだろう。

 できるわけがない――と思ったのだ。どんなに切羽詰まったとて、世間知らずの小娘がそんなことするわけがない。震えあがって怖気付いて、恋心もろとも諦めるの関の山であろうと。

 だから、これで終わりだ。お七と“佐兵衛”の仲も、吉三郎の仲立ちも。

「さあどうする。どうするんだ、嬢ちゃんよう」

 じり、とお七にさらに近づく。お七は呆然と立ち尽くし、微動だにしない。――と、そこに路地を抜けた先からぱたぱたと騒がしい足音が聞こえてきた。

「お七ちゃん、こんなところにいたのねッ」

「お七やっ」

 ゆきとお峰は姿を消したお七を探しに町中を駆けずり回っていたのだ。立ち尽くすお七に駆け寄り、仁王立ちの吉三郎をきっと睨みつける。

「あんただったのね、お七ちゃんを誑かしてたのはッ。お七ちゃん、あんた騙されてるのよ。あいつはとんでもない奴よッ」

「あんたッ、あたしの娘に何してくれたんだい。このろくでなし、人間の屑だよッ」

 口々に吉三郎を罵るお峰達に、何やら揉め事だと聞きつけてきたらしい野次馬が集まってくる。これ以上騒ぎになると同心が来るかもしれない。吉三郎は舌打ちをして踵を返した。

「けッ。知るかよ、手前ら全員大間抜けだぜ」

「待ちなさいッ」

 捨て台詞を吐いて逃げ出す吉三郎をゆきは歯がゆい思いで見ながら、すっかり放心しているお七の手を取った。お七は虚ろな目で空を眺めながら、小さな声で呟くだけだった。

「……佐兵衛さま」

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