第20話

 八百屋で起こった火事は、幸いにも周囲に燃え移る前に消し止められた。

 店主夫妻の首尾が良かったためか、使用人達にも大きな怪我はなく、建物と家財の一部が焼けてしまった以外は被害はなかった。

 しかし――八兵衛一家の受難はまだ終わってはいなかった。




「おらっ、いつまでも寝てんじゃねえッ」

 頭から水をぶちまけられ、吉三郎の気は闇から引き上げられた。

 なんでまた水を被らねばならん。もう一遍火の中飛び込めってのか。腹が立って顔を上げるが、吉三郎に水をかけた相手はもっと腹を立てているようだった。

「呑気に寝ぼけやがって。火事場泥棒がよ」

「ああん――」

 吉三郎は格子で塞がれた狭い部屋の中に転がされていた。地べたにそのまま寝ていたせいか、あちこちが痛む。立ち上がろうとして、自分の手足が縛られていることに気が付く。

 ――ぶちこまれた。そう察した途端、かあっと頭に血が昇る。

「手前、何しやがる」

「それはこっちの台詞だッ。コソ泥風情が一丁前に口利きやがって。恥を知れッ」

 おそらく同心のたぐいであろう男は、額に青筋を浮かべて吉三郎の頬を平手で打った。吉三郎は危うく舌を噛みかける。

「げッ」

「お前のことは知ってるぞ。吉祥寺の小野川のせがれ、勘当された放蕩息子だな。酒や博打じゃ飽き足らず、ついに一線超えやがって。どうせお前が火付けもしたんだろう。屑がッ」

 同心はすっかり吉三郎を火事場泥棒だと決め込んでいるようだった。うずくまる吉三郎にいかにも軽蔑したように唾を吐き捨てる。

 吉三郎はぼんやりと気を失う前のことを思い出した。お七の家が燃えていて、お七が中に居るものだと思い込んで入ってみたはいいが、ろくろく探せないうちに煙を吸って倒れてしまったのだ。そこを遅れてやってきた火消し達に助け出されたのだろう。しかし、それが何故火事場泥棒ということになるのか。

 いや――吉三郎は内心で首を振った。益市も言っていた。自分のようなごろつきが火事場に居ればそれだけで怪しまれるものなのだ。いくら潔白を主張しても、それまでの行いのせいで全く信じてもらえない。しかも、同心達は余罪まで疑っているらしい。

(首切りか火あぶりか、一体どっちがマシに死ねるんだろうな)

 やけっぱちになったか、恐ろしい状況に逆に頭が冷えてしまったか、吉三郎は妙に冷静に自分の今後のことを考えた。

「それで、俺の刑は決まったかよ」

「いいやまだだ。お前にはたっぷり訊かにゃならんことがあるからな」

 吉三郎の軽口に、同心はむちを取り出して恐ろしげな笑みを浮かべた。

 火付改めや町奉行に捕らえられた咎人は、過酷な拷問を受けるのが常であった。

 奉行の裁きでは、いかに明らかな罪の証拠があったとしても、咎人自身の自白がなければ裁くことはできなかったのである。無論死罪が待っているとわかっていて罪を認めるような咎人はいない。そこで同心達は、特に凶悪な罪を犯した咎人に対して拷問を行い、無理やりにでも自白を引き出したのである。

 特に火付盗賊改方の拷問の恐ろしさは知られていて、幕府が認めていないような手段を使ったり、一度に複数の拷問を科すこともあった。その熾烈さはたびたび咎人を死に追いやっているという。白状しなければ拷問による責め苦で死ぬ。白状すれば処刑される。ひとたび捕らえられた咎人は、どの道生きては出られなかったのである。

 吉三郎は火事場泥棒だけでなく火付けも疑われていた。その為、同心はどちらの自白も吐き出させようと恐ろしい責問せめどいを強いてきたのだった。

「さっさと吐けッ。てめえのやったことはわかってるんだッ」

 同心は吉三郎を十露盤そろばん板に正座させ、腿の上に石を積んだ。十貫は超すという石材を二つも三つも載せられ、吉三郎の足は板の角に食い込んでいく。ぎいっと痛みに呻くと、同心は後ろから笞で打ってくる。鋭い痛みが何度も背中を襲う。

「ううっ」

「痛ぇか。痛ぇだろうな。嫌だろ。てめえが一言『やった』と言えばやめてやるんだよ。どうだ、やったのか」

 勿論、やってはいない。無実の罪を認めたところで、待っているのは火あぶりである。

「知らねえよ。こちとら全く身に覚えがねえ」

「この野郎ッ」

 言われるがままに自白してやるのが癪で、そんな風に吐き捨てると、同心は逆上して吉三郎の顔を笞で打った。口の中が切れ、舌に血の味が染みる。

「ふざけやがって、この屑が。てめえみてえなろくでなし、生きてたってろくなことしやしねえんだ。その上なんだ、世間にまで迷惑かけやがって。これ以上恥晒す前に鈴ヶ森に行けッ」

 石抱きに慣れてきたと見るや、今度は体をめちゃくちゃに折り曲げられたまま縛り上げられる。出来損ないの達磨のような恰好で、ぎりぎりと縄が食い込む上に無理に曲げられた腕や脚が悲鳴を上げる。これ以上無様を晒すまいと歯を食いしばって耐えていると、同心が笑いながら吉三郎の体を蹴った。体が揺れるたび縄がぎりりと肌に食い込む。

「おら、おら、吐け、この野郎。てめえが死んだってやめてやらねえぞ。吐かねえならこのまま死んじまえッ」

 何度も頭を打たれていると気が遠くなってくる。吉三郎の目が虚ろになると、同心はその度水をかけて正気に戻した。そして責め苦に慣れ切る前にまた新しい責めを吉三郎に科す。それが幾度となく繰り返され、吉三郎の頭は上手く働かなくなっていった。

 ――お七。

 霞がかった頭の中に女の顔が浮かぶ。ああ、あいつは今頃どうしているのだろう。火の中で息絶えたのか。それとも生き延びて、どこかにいるのだろうか。生きているとするなら、家が再び無くなってしまったのだから、きっと円乗寺に行ったのだろう。そしてあのぼんくら若衆と涙の再会を果たしたに違いない。そう思うと、なんだか無性に遣り切れなくなった。

 畜生。

「おい、なんだそのつらは。いっそ本当に殺してやろうか。てめえみたいな奴、燃やしてやる薪が勿体ねえってもんだ。生きてるだけで人様に迷惑をかけるしなあ。ここで死ぬのが一番の善行だろうよ」

 同心は段々苛立ってきたのか、笞を捨てて直接殴ったり蹴ったりするようになっていた。縛られている吉三郎はろくろく抵抗も出来ない。どこから出たかもわからぬ血を吐き出す。

「げほっ……」

「――おい、そこまでにしろ」

 同心とは違う声がしたような気がした。頭がぼうっとしているから、聞き間違いか空耳のようにも思った。それとも新しい同心が拷問をしにきたのか。

「な、なんですか。こいつぁまだ……」

「いや、。火付けを名乗り出た者がいる」

「へっ。い、いやしかし……」

「泥棒もやっていない。八百屋の旦那が証言している。それに、こいつは何も盗っていなかったんだろう。燃えている最中に突っ込んで、何も盗らずに死にかけるような間抜けがいるか」

 なんだか妙な会話だ、と思った。もう一方の声は、まるで吉三郎を庇っているように聞こえる。馬鹿な、そんなことがあるものか――。

「此度はまこと、相済まなかった。詫びは後にしかと用意しよう」

 縄が解かれる。鈍い動きで顔を上げると、見知らぬ顔が穏やかに、申し訳なさげに微笑んでいる。気に入らない顔つきだったが、噛みつくような気力は既になくなっている。それよりも吉三郎は困惑していて、せっかく解放されても身動きが取れなかった。

「ええッ。じゃあ、やっぱりあの娘が黒だって言うんですかい。そんな馬鹿な」

「本人が自白している。それに、火元はあの娘の部屋からのようだ。疑いようがない」

 ふうっと見知らぬ男が溜め息をついた。憂いが浮かんでいるその横顔に、吉三郎は胸騒ぎを覚えた。

「……しかし、信じられない。八百屋のお七、と言ったかな。十六の娘が、な――」

 その名を聞いた途端、吉三郎は再び闇の中に沈んでいった。

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