第24話

 ――許せない。

 これは、多分嫉妬なのだ。思えば吉三郎はずっと、妬みが化けた怒りに振り回されて生きてきた。

 坊主にむかついたのは己に神仏を信じて正大に生きていく正直さがなかったからだ。商人に苛々したのは汗水垂らしてあくせく働き金を得る真っ当さに馴染めなかったからだ。武家を嫌ったのは上様の為国の為と忠義に命を懸ける信念を持てなかったからだ。

 真人間と呼ばれている連中は口を揃えて真面目にしろ、正直に生きろ、と言う。しかし、吉三郎から言わせればそれらは背の高さや頭の出来とかと同じで、生まれつき持つ持たざるを決められているものなのである。世の人間が全てそんな風に生きられるのなら、ならず者なんて最初から居ないはずであろう。

 だから吉三郎は悪人として生きた。善人が苦労して集めた金を横から掻っ攫い、善行も労働も馬鹿馬鹿しい戯れ言だと鼻で笑ってやった。そうすると決まって「そのうち天罰が下る」などと脅されるが、そんなことは実際にバチとやらが当たってから考えれば良い。世の中が正しくて、神仏がちゃんと下界のことを見守っているというのなら、きっとすぐにそうなるはずだ。善人連中はそれを信じて精々必死に拝んでいればいい。

 だが、実際はどうだ。

 善人は報われることなく死んでいく。正直に生きようが真面目に働こうが、もっと大きくて恐ろしい力によって、人生など簡単に曲げられてしまう。あの若衆は誠実にしようとすればするほど自らの想いを封じ込め、腐った他人に苛められる羽目になった。八百屋は可愛い娘に火付けされて自分の家と娘をいっぺんに失うざまだ。

 あの娘にしてもそうだ。黙っていれば勝手に良いように事が運び、望みどおりに愛しの人との再会を果たせていたに違いない。それを、なんだ。自分から火あぶりに名乗り出て、憎いはずの吉三郎を庇うような真似をして。どれだけ善を成そうが徳を積もうが最早意味があるまい。正義。正直。善良。それらは全て馬鹿の言い換えでしかないと吉三郎は思う。

 そして吉三郎は、そんな命知らずの間抜けによって命を救われてしまった。

 ――許せない。

 そんなに良いものが好きか。

 許せない。

 そんなに早死にしたいのならさっさと死んでしまえ。

 許せない。

 愚かであることこそ罪だ。自分がどれだけ浅はかであったかを思い知って、命を惜しんで死ねばいいのだ。

 憎んで恨んで、地獄に落ちるに相応しい大悪人になればいい。

 手前が何十通と愛を綴った相手はこの俺だ。

 いいかげん夢から覚め、現実を思い知ればいい。


「釈放したのに自分から戻ってくるとは何事か。またお縄につきたいのか」

 牢の前でうろついていたのを見咎められ、吉三郎は同心に引かれて歩く。また牢に入れられるかと思いきや、濡れ衣を着せていた負い目か大したことはしてこない。吉三郎は「うるせえ」と小さく毒づく。

「話があっただけだ。世間話をするのも罪だってのかッ」

「へそ曲がりめ」

 同心は相変わらず軽蔑を隠そうともしない態度である。

「さっさと出ていけッ」

「言われなくともそうしてやらあッ」

 役所は中山の屋敷内にあり、出ると中山が住んでいる大きな武家屋敷が目に入る。ちょうど中山が外出から戻ってきたところらしく、吉三郎は門の手前で部下と何やら話し込んでいる中山の姿を見た。

「……しかし、老中殿のご意向でありましても……」

「良いか。これは只の慈悲や情けではない。何も考えずに法に全てを当てはめることばかりが正当な裁きとは限らぬのだ」

「わかっております。しかし、万が一おおやけになってしまえば、それもまた上様のご威光に泥を塗ることになるやもしれませぬ。咎人の齢を誤魔化し、刑を軽くするなどと――」

 直後、同心は自分の声の大きさに気づいてはっと口を押さえる。しかし吉三郎はきっちり一部始終を耳にしていた。

「おい、お役人さんよ。手前、今なんて言ったんだ」

「其方、いつぞやの……」

 中山は目を見開き、精悍な顔に焦りの色を浮かべた。吉三郎は肩を怒らせ大股で同心達に近づく。

「誤魔化す、ってえ聞こえたぞ。まさかお国に仕える天下のお役人が、法に背くような真似をするわけじゃあねえだろうな」

「其方には関わりのないこと。ぬがよろしい」

「おいおい、人を“関わりのないこと”で甚振っておきながらそりゃあねえだろうがよ。ごろつきなら無実だろうがいくらでも殴っていいが、可愛いお嬢ちゃんはどんな罪を犯そうが目ェつぶって見逃してやるわけだ。良い商売だな、ええ」

 適当なに中山は容易く引っかかった。さっと一瞬変わった顔色を吉三郎は見逃さない。

「……やっぱりお七の件かよ。そういうことなんだな」

「何も知らぬ身で口を出すな。これは、其方の考えているようなことでは……」

「手前らが何考えてるか知らねえがな。こちとらは見えるところしか見ねえよ。どんな事情があろうが、小娘に情を抱いて贔屓したようにな。なんだったら今町で訊いてきてやろうか、手前らの企みをどう思うかよう」

「お前ッ……」

 刀に触れようとする部下を中山が手で制す。憎たらしいが、吉三郎は決して間違ったことを言っていない。都合が悪い、気に入らないからと人を手打ちにするような真似を中山は何より嫌っていた。

「……其方の望みはなんだ」

「はっ、強請り集りの類と思ったか。俺ぁそこまで身の程知らずじゃねえ。だがな、今のでしっかり手前らの企みを覚えてやった。もしも手前らがおかしなことをしでかすようなら、俺の声は千里先まで届くだろうよ」

 中山は焦りと怒りに疑念の混じった顔で吉三郎を見つめた。吉三郎はいかにも横柄に中山を見返す。

「其方、己が誰によって命を拾われたかわかっているのか。あの娘が白状しなければ、其方こそ……」

「はん。わからねえよ。わかってたまるか。何もかもあいつの自業自得だろうがよ。悪いのはあいつだ、あいつは善人ぶって死ぬのがお似合いだよ」

 中山は言葉をなくし、まじまじと吉三郎を凝視する。次第にその表情は憎々しげに引きつっていった。

「……この悪党め。貴様を斬れぬ我が身の甘さが恨めしいわ」

 お前こそ死ねばいいのだ――中山の目がそう物語っていた。まったくその通りだと吉三郎は思う。そうならぬのはひとえにお前達が馬鹿だからだ。

 馬鹿だ、馬鹿だ馬鹿ばかりだ、許せない――その感情が妬みではなく、彼にも生来備わっていた良心から発せられるものであることに、吉三郎はついぞ気づくことはなかった。


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