第30話

 犬次を葬ってから三、四日経った頃、吉三郎の住む長屋に益市が訪ねてきた。

俺等おいらぁ、故郷くにに帰ろうと思います」

 小さな風呂敷包みを携えた益市はそう言ってはなをすすった。

「手前の故郷といっちゃ、奥州じゃなかったか。遠いだろ」

 陸奥であったか出羽であったか、いずれにしろ長旅となろう。心付けでも出してやろうと思ったが、意外にも益市は固辞した。

「俺等はもう、誰の助けを借りることも出来ません。これまで悪事の限りを尽くしてきましたから」

「雲助益市が悪事に懲りたってのか」

「おかしいでしょう。笑ってくださいよ、へへ」

 益市は犬次のことを可愛がっていた。

 故郷に残してきた弟のことを思い出すと言って、小遣いやお八つをやったり、頼まれもしないのに遊びに連れ出していた。犬次も多分、そんな益市のことを実の家族のように慕っていたはずだ。

 犬次の死が腹にくすぶり続けていることは、察するまでもなかった。

「じゃあ、手前とはこれが今生の別れか」

「へえ。吉三の兄貴も、どうぞお達者で」

 益市はもう一度洟をすすり、去っていった。

 きっと死にに行ったのだろうな、と吉三郎は益市の背中を見て思った。


 当の吉三郎も、あれ以来ずっと犬次に悩まされていた。

 夜な夜な、夢枕に犬次が現れるのである。最後に見た、焦げた着物に火ぶくれだらけの肌で、じいっと吉三郎を見つめているのだ。

 ――なんだよ、手前は。おっ死んだんだから素直に地獄に行きやがれ。

 そう呼びかけてみても、犬次は黙りこくって答えやしない。きっと火に巻かれたせいで喉も焼けてしまったのだろう。

 ――いつまでもいるんじゃねえや。益市に逃げられたから、俺に小遣いねだりにきたか。六文銭はどこに落としてきやがった。ぐずぐずしてるから他の亡者にでも獲られたんだろ。愚図だな、手前らしい。

 ――ああ、さては煙管だな。貰ったんだから渡してくれろってか。生焼けになっても懲りてねえのか。地獄の関所で小火でも起こしてみろ、閻魔様も呆れて焦熱地獄に落とされちまうぞ。

 いくら説いても罵っても、犬次は夜になると必ず吉三郎の元に現れるのだ。吉三郎もさすがに辟易し、夜は寝ずに一晩中酒を飲み明かすことにした。

 千鳥足で夜の町を歩いていると、真っ暗闇の景色が妙に明るく見える。たまに出ている軒先の提灯が膨れ上がって、まるで鬼火のように見えた。恐ろしくなって家まで取って返すと、今度は犬次が恨めしげに万年床に突っ立っている。

 眠れば犬次に見つめられ、起きれば鬼火に囲まれる。吉三郎の生活は日に日に荒れていった。

「ありゃあきっと、取り憑かれちまってるんだろうさ」

 目を血走らせ、無精髭もろくろく当たらずにぶつぶつ何やら呟きながらうろうろする吉三郎を見て、近隣の者は口々にそう言いあった。

「あいつはね、殺した女が夜な夜な化けて出てきてすっかり参っちまってるのさ」

「惚れた女が振り向いてくれないのに腹を立てて殺しちまったんだよ」

「ああ恐ろしい。悪党吉三、とんでもない野郎だよ」

 恋文を焼いているのを見た、と語る松の婆に、長屋の住人達はすっかり納得した。まさかあの吉三が女に惚れるとは。いやいや、あいつは小姓趣味だよきっと、ずっと男の名前を呟いてるじゃないかね。

 身寄りのない吉三郎を気にかける者は誰も居らず、そのうち吉三郎が部屋に閉じ籠って出てこなくなっても気にも留めなかった。


 吉三郎は暗闇の中、ぼうっと犬次を見つめていた。

 犬次は明るい間は出てこない。行灯に火を灯せばすぐにでも消えてしまうだろう。だが、火は駄目だ。火を付けると鬼火が現れる。犬次と鬼火、どちらが恐ろしいか。吉三郎は決めかね、万年床に転がりながら亡霊の姿を見つめる。

 ――そんなに煙管が欲しいかよ。

 吉三郎は手探りで煙管と火打石を探り出す。煙管の火皿に適当に葉を詰め込んで火を付けた。蛍のような頼りない光に、犬次の姿は薄まっていく。

 ――ほら、吸いたきゃ吸いやがれ。今の手前じゃ、煙と体が混じってわやくちゃになっちまうだろうがよ。

 吸い口の曲がった煙管を犬次が居た方へと投げつけ、けらけら笑う。その後、急に全てに腹が立って、そこら中のものを蹴る。

 無造作に置かれていた行李が横倒しになり、振袖が顔を覗かせた。吉三郎のような粗暴な男にはとても似合わない晴れ着である。吉三郎は更に苛立ち、振袖を何度も踏みつけた。

「くそ、くそ、くそッ」

 徳利を拾い上げ直に口を付ける。犬次は居ない。鬼火も現れない。だのに、まるで落ち着かない。空になった徳利を床に叩きつけて割った。

「畜生め」

 ずるずると座り込む己を、吉三郎はどこか離れた場所から冷めた目で見つめている。無様な姿である。一体己は何がしたいというのか。吉三郎はもう一度けらけら笑って、疲れに任せて瞼を下ろした。


 ――ごうごうと、火が唸りを上げる音がする。


 目を開けると、そこは八兵衛の店であった。ごうごうと炎に包まれ、中に佇む吉三郎を焼かんと焦熱が責めたてる。吉三郎は吹きだした汗をぬぐった。

 どこだ、どこだ。

 ああ、急がねえと。

 探さなければ、あいつを。

 ふらふらと歩いていると、やがて目前に女が見えた。美しい紅色の振袖を纏った女が優しげに微笑んでいる。


 ――ああ、そんなところに居たのかよ。

 そこは危ねえ、こっちに来いよ。なんだ、来ないのか。

 ああ、そうか。

 俺の方から――行くしかねえのか。


 吉三郎はよろけながら女に近づいて、そっと抱いた。

 ごうっと一際大きな炎が上がり、吉三郎の身を包み込んだ。




 とある棟割長屋で起こった小火は、幸いにもすぐに消し止められた。

 負傷者はおらず、死者も出火場所と見られる一室で見つかった屍一つである。すっかり黒く焦げ付いたこの屍は、焼け残った遺留品や近隣住人の証言から吉三郎という男であると断定された。

 煙管を吸っていたところを、酒で酔っていたのか手を滑らせて落としてしまい、それが小火に繋がったのだろうと火消し達は考えた。人の出入りした形跡はなく、火付けの類ではなくおそらく吉三郎の起こした事故であろう。

「いいや違うね。ありゃあきっと自害さ」

 ただひとり、松の婆だけはそう言い張った。部屋の中はそこまで焼けていないのに、吉三郎の骸だけはまるで火あぶりにされたように酷く焦げていたからだ。

「見なよ、あの煙管は女物だよ。それに振袖を、まるで形見みたいに後生大事に抱えて持っていたんだ。殺した女の元に行こうとしたんだろ。さもなきゃ――女に祟り殺されたに違いないさ」

 骸となった吉三郎は、同じく焦げた振袖をそれはそれは大事そうに握りしめていた。

 振袖をかき抱いて倒れ伏した骸の焦げる前の面の皮が、心から安らいだ形になっていたことを知る者は誰ひとりとしていなかった。

 

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恋文振袖焦がれ草 ―新談・八百屋お七― 古月むじな @riku_ten

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