第29話
佐兵衛の念者、生田庄之助が旅先から戻ってきたのは卯月の半ば頃のことだった。
「此度のこと、誠に申し訳ありませんでした」
佐兵衛は円乗寺の門前で、着物や肌が汚れるのも厭わず平身低頭して念者を迎えた。若衆の突飛な行動に、生田も動揺するほかない。
「これはどうしたことか。佐兵衛、何ゆえそのような真似をする。頭を上げよ」
「いえ。一時とはいえ、わたしはあなた様を裏切ることをしました。この山田佐兵衛、この場で切り伏せられても当然の身なのでございます」
頑なに平伏し続ける佐兵衛を生田はどうにか立ち上がらせ、円乗寺の屋内へと連れていく。とにかく、話を聞かぬことには始まらない。
円乗寺の様子は出立前とはほとんど変わっていないようだった。昨年は師走の二十八日に起きた大火や、僧侶による暴行事件、その他色々些事は起これど、僧侶達は今日も真面目に勤めを果たし修行に励んでいるらしい。一見してわからぬがゆえに、佐兵衛の身に一体何が起こったかと生田は不安になる。
「……お主が商人の娘に懸想していたというのは、ならばまことなのか」
「申し開きの余地もございません。全て事実にございます」
「待ってくださいっ」
馬鹿な、と生田が呟く前に、若い坊主が部屋に飛び込んでくる。盗み聞きしていたのだろう、片耳だけ赤くなっている。
「仁久さんっ」
「こいつ……いえ、佐兵衛殿は、決して念者様を裏切ったことはありません。確かに一時の気の迷い、心が動きかけたことはあるかもしれません。ですが、彼の身は清らかなまま。念者様への忠義を貫き通し、一切色事には染まっておりません」
仁久は得意の饒舌であることないことをまくし立て、なんとか佐兵衛を庇おうとする。どこぞの不届き者が何かしたらしいが、そこはそれ。佐兵衛が責められるいわれはないはずだ。
「佐兵衛が誰より真面目で誠実なのは念者様こそがご存知のはず。彼は刹那の迷いにすら良心を痛め、貴方への忠の為に腹まで斬らんと覚悟をしていたのです。どうか何卒、お慈悲をお願い申し上げます」
「仁久さんっ……いえ、庄之助様」
畳に頭を擦り付ける仁久に動転しながらも、佐兵衛も再度生田にひれ伏した。
「弥生の末に火あぶりとなった八百屋お七という娘。その方が火付けを起こしたのも、元はといえばわたしのせい。気立ての良い、とても罪など犯さぬような無垢な娘が、わたしが心を惑わせてしまった為にあのようなことをしてしまったのです。本当ならば、わたしこそ罪に問われるべき咎人。腹とは言わず、この場で首を刎ねていただきたく」
「佐兵衛っ」
「もうよい、よくわかった」
生田はかぶりを振ってふたりを止める。このままでは埒が明かぬ。
「お七という娘の話は聞いておる。その者に、お前は懸想をしたのだな」
佐兵衛は口を閉ざして頷く。否定できぬ。どれだけ忠を通そうとしても、最後に見たお七の姿を忘れることはできなかった。
「お前の性格はよく知っておる。お前が義を捨てるような真似をするまい。まことに二心を持ってしまったなら、遠く離れた私のことを忘れ幾らでも道を外れることはできただろう。お前はそれを耐え抜き、わたしを待ち続けてくれたのだな」
「庄之助様……」
「元はといえば、お前を待たせてしまった私も責があろう」
いくらやむを得ぬ長旅とはいえ、何月も遠く離れていれば自然と心も離れてこよう。坊主であれば煩悩もあるまいと任せたはずが、破戒坊主に酷く傷つけられる始末。佐兵衛こそ念者を罵り縁を切ろうとしてもおかしくはないのだ。
「私の為に、辛い苦労を背負わせてしまった。本当にすまなかった」
居住まいを正し、頭を下げる念者に佐兵衛は思わず目に涙を浮かべた。仁久の目がなければその場で飛びついていたかもしれぬ。
「兄様、庄之助様……」
「お七なる娘、美しかったのだろうな。お前ほどの者が心奪われる女、生きているうちにまみえたかったものだ」
まだ佐兵衛の心のうちにいるであろう娘の姿を思い浮かべ、生田は穏やかに目を細めた。
「佐兵衛、本気なのか。出家するって」
「ええ」
すっかり若衆髷を剃り落とし、文字通りの丸坊主となった佐兵衛に仁久はぎょっとする。女と見まごう美貌はそのままに、まるで尼のように見える。
「庄之助様にも許しを頂きました。いっそのことご自分も仏門に入ると言い出したのは驚きましたが」
「思いきりが良いなあ……」
若衆思いの念者をなんとか思いとどまらせ、佐兵衛はひとり円乗寺に入山することに決めた。元々馴染みなだけあり、住職も歓迎してくれている。
「まあ、止めはしないけどさ。坊主も大変だぜ。朝早くに起きて夜遅くに寝て、生臭は一切食べられないし、町で遊んだりすることもできないんだ」
「あなたは全然戒を守っていないじゃないですか」
「俺は破戒僧になるんだからいいんだよう。お前なんか根っから真面目だから、なんでもかんでも守ろうとするだろ。つらいぞお」
ふざけて脅かしながらも、仁久は懸念を抱いていた。佐兵衛のことだ、伊達酔狂で出家しようなどとは思うまい。
「……弔いを頼まれまして」
「お七のことか。八百屋の人達に」
「元々、わたしもその気でありましたから、渡りに船です。多分この先、庄之助様に仕えていても、きっと忘れられませんから。それならお前が供養をするのが良かろうと、庄之助様にも言って頂きまして」
きっと――ふたりは赤い糸で縁を結ばれた仲だったのだろう、と仁久は思った。世の中の決まりがもう少し違えば、全く違った形で出会えていれば、きっと想いを遂げられたに違いないのだ。もしかすると、また来世で出会うことができるかもしれぬ。
お七は咎人として処刑された。咎人ならば閻魔様に裁かれるのが常であろうが、その罪は供養された分だけ軽くなり、地獄道から逃れることもできるという。であれば、一心に弔い続ければ、いつかまたどこかで佐兵衛とお七は巡り合うことができるのではないか。
「……よし。だったら俺もつき合うよ」
わざとおどけたように仁久は言った。
「破戒僧になるのではなかったのですか」
「破戒したって供養はできらあ。賽の河原の石積みだって供養になるんだからな。肉を食おうが女と遊ぼうが弔いの心は変わらないさ」
「あなたこそ地獄に落ちますよ」
「こいつっ」
ふざけ合っていると、最早常連となってきたゆきが何やら包みを抱えて走ってきた。
「ああ、いたわ。佐兵衛さん、あんたお七ちゃんの供養するって」
「そうですが……」
「これ、供えてあげてくれる。お七ちゃんの形見なのよ」
ゆきが持っていたのは豪奢な仕立ての振袖であった。
「これって……あの時俺があげたやつ」
「あたしが預かってたんだけど、やっぱりこれはお七ちゃんのものだから。お七ちゃんに返してあげられるように、これも供養してほしいの」
佐兵衛は振袖をじっと見つめた。綺麗な晴れ着である。これに袖を通したお七の姿は、さぞ美しかったことだろう。
「……わかりました。確かに、受け取らせていただきます」
「お願いねっ。ちゃんとやってるかどうか、何度も見に来るからねっ」
しつこいくらいに念を押すゆきに、佐兵衛は少し笑ってしまう。そしてふと、中庭の方へ目をやった。あの夜、共に月明かりを浴びた場所である。
――佐兵衛さま。
思い出の中のお七が、美しい振袖を纏って柔らかく微笑み、陽だまりの中にゆっくりと消えていった。
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