第28話

 鈴ヶ森刑場で火あぶりが行われた、その翌日。

 とある棟割長屋の裏庭でもうもうと煙が上がっていた。春にも関わらず焚き火をしでかしている不届き者はごろつき吉三郎である。

 さながら親の仇であるかのように睨みつけては火中に放り込んでいるのは、何やら文字が書きつけられた紙きれであった。その数、尋常ではない。一体狭い部屋のどこにこれだけ溜めていたのか、事情を知らない者にはわけのわからない光景であった。

「ちょいとあんた、こりゃどういう了見だい」

 煙にいぶされ、辟易した様子で出てきたのは吉三郎の二軒隣に住む老婆である。吉三郎は勝手に“松の婆”などと呼んでいるが本当の名前はわからぬ。何やらよくわからぬがらくたをかき集めては二束三文で売って生計とする、吉三郎に負けず劣らずのはぐれ者である。

「いやだ、こんな時分に焚き火なんかして。酒で頭が狂って暑さ寒さもわからなくなっちまったのかい。年明けからこっち、火なんて見てるだけで気が滅入るってのにさ」

 ぶつぶつ言いながら出てきた松は、薪代わりに燃やされている紙の山を見て目を剥いた。使われたものとはいえ、紙は紙。紙屑買いにでも売ればそれなりの金にはなろう。特に吉三郎のようなろくろく働かず、有り金を全て賽子に突っ込む博打狂いがそんな真似、銭を溝に捨てているようなものである。

「なんて勿体ないッ。あんた、本当に狂っちまってるんじゃないのかい。要らないならあたしにくンなよ。ねえったら」

「うるせえ」

 吉三郎はじろりと老婆を睨んだ。その目つきがまるで悪鬼のようで、海千山千の婆も思わずたじろぐ。

「な、何さッ。あんたこそ煙たいんだよ。早く消しとくれ、煙が入ってきて熱いわ目に染みるわ、いい迷惑さッ」

 及び腰になりながらも言い返す松。だが、吉三郎が放つ剣呑な気配にじりじりと後ずさりをする。

「大体、あんたみたいなむさい男がこんなに紙溜めてどうしたって言うんだい。物書きにでもなるつもりかい。それともいい歳して恋文でも送ろうってのかい」

 松からすればそれは他愛のないからかいの言葉であった。情け無用の悪党が、まさかそんなことをするまいと思い込んでいたのである。しかしそれこそが吉三郎の逆鱗に他ならなかった。

「黙れッ、糞婆。ぎゃあぎゃあ喚くな、手前も一緒に燃やしてやろうか」

 火掻き棒を振りかざし、ずかずかと大股で松に迫る。すっかり肝を潰した老婆は慌てて自分の部屋へと取って返した。

「なんだい、あいつ。ああ恐ろしいッ」

 その日を境に、吉三郎の奇行は日増しに激しくなっていった。


「兄貴ぃ、本当にどうしちまったんですかい」

 吉三郎は賭場でも奇妙な様子だった。

 賭場の中でひとり、まるで葬式の真っ只中のように暗い顔で、ひたすら静かに酒を飲んでいる。気が滅入る、ちょっとは騒げと顔馴染みが絡んでくると、今度は火が付いたように怒りだし終いには掴み合いの喧嘩になる。もう関わるのも面倒だ、と吉三郎に関わる者は少しずつ減っていった。

「花街でも行きやすか。見世物でも見に行きやせんか。ねえ、兄貴ったら」

「兄ぃ、兄ぃよう」

 そんな中、益市と犬次だけはしつこく吉三郎にまとわりついた。

「そんな面下げてたらツキに見放されちまいます。なんなら、俺が奢りますよう。ねっ、元気出して」

「うるせえ」

 益市の言葉を聞き流して猪口を傾ける。不味い酒で、吉三郎の顔はますます渋くなった。

「そんなこと言わずにぃ。なあ、犬次」

「兄ぃ、これ」

 と、何やら犬次は大事そうに抱えていたものを吉三郎に差し出した。美しい装飾が施された女物の煙管である。お七が起こした火事の折、吉三郎が失くしていたものだった。

「手前、どこでそれを」

「兄貴が引っ張られた後、質屋に流されてたんです。やっぱり兄貴のだったんですねえ。俺も大枚はたいた甲斐がありやした」

 同心が取調べの時に取り上げたか、火事場に落としたのを手癖の悪い火消しが拾ったのだろうか。吉三郎は煙管をまじまじと見つめ、やがて舌打ちをして目を逸らした。

「要らねえよ」

「えっ」

「そんながらくた、そこらへんに捨てちまえ」

 吉三郎は再び猪口を傾ける。予想だにしない反応に益市は狼狽えることしかできない。

「そ、そんなあ。俺は兄貴の為を思って、これで財布を空にしたってのに」

「じゃあ兄ぃ、これおれがもらっていい?」

「好きにしろ」

「わあい」

「あっ、こら、犬次お前っ」

 犬次は嬉しそうに煙管を抱えて走っていく。吉三郎が煙管を吹かす姿に密かに憧れていたのである。

「吉三の兄貴、一体どうしちまったんです。変ですよう、本当に」

 元々益市と同じ筋金入りの屑である。些細なことで手を上げ、酒に博打にろくなことをしないのが吉三郎だ。しかし、屑同士助け合ったよしみ、放ってはおけない。

「兄貴、吉三の兄貴ってば」

「うるせえぞ。あっちに行け」

 益市の甲高い声が耳障りで仕方ない。構われれば構われる程腹が立ち、吉三郎はますます酒を煽った。

「ぎゃあっ」

「なんだ、おい、火だぞ」

「燃えてる、早く消せッ」

 と――にわかに賭場が騒がしくなる。誰かが小火を起こしたのか、何か燃えているようである。さすがの吉三郎も酒盛りを止め、益市を伴って様子を見に行った。

 不幸な事故であった。

 出火の原因は犬次が見様見真似で煙管を吸おうと火をつけていたことである。そこに酔っ払って千鳥足のごろつきがつまずいて、運悪く飲んでいた酒をかけてしまったのである。小さな火花は途端に大きく膨れ上がった。

 火だるまとなった犬次が転げ回っている。

「あつい、あついようっ」

 連日の騒ぎで江戸っ子は火には敏感になっていた。ましてここはならず者が集まる賭場、騒ぎが起きれば同心達に一網打尽にされてしまう。喧嘩や博打に明け暮れていたごろつき達も一心に消火に励み、幸い火はすぐに収まった。

 しかし――その頃には犬次はすっかり物言わぬ姿に変わってしまっていた。

「犬次、おい、犬次っ」

 益市は犬次の肩をゆすった。着物は黒く焼け焦げ、体中に火ぶくれが出来ている。とっくに息などしていない。手足を縮こませ、ごろりと横たわる姿は虫のそれによく似ていた。

「おい……」

 吉三郎は少し焦げた煙管を拾い上げ、無惨な犬次の姿と見比べた。鼻をつまみたくなるおぞましい臭いは、煙草の煙とは似ても似つかない。犬次にすがりついて泣く益市の横で、吉三郎は放心して立ち尽くしていた。


 犬次を弔おうとする者は誰もいなかった。

 ごろつき達は火を消した後はまるで無関心で、悪臭を放つ犬次の骸をゴミを見るように眺めるだけである。さっさと片付けてほしいが、自分が関わるのは御免なのだ。死体などそう珍しいものでもない。犬次の周りを避け、またいつも通りに各々が遊びに戻っていった。

 犬次を雇っていたはずの賭場の胴元もまるで知らぬふりである。こんな焦げた奴なんざ見たことねえ、俺が雇ったのはなんだから――馬鹿の犬次を雇っていたのも賃金をろくに払わずともよく働いてくれたからで、棺桶を買ったり葬式を上げたり、とにかく金がかかるようなことに手を付ける気などないらしい。

 犬次の骸は吉三郎と益市が力を合わせて運びだし、むしろに包んで町外れの林に埋めることにした。

「犬次ぃ、ごめんなあ。棺桶も坊主も高いんだ。俺等達には、これが精一杯なんだよお」

 益市は犬次の懐に六文銭を入れる。銭の価値もわからぬ奴だったが、光り物は好きだった。きっと三途の川まではなくさずに持っていけるだろう。

「なんでかなあ。なんでお前みたいな奴が死ななきゃならねえんだろうなあ。お前は馬鹿だけど、良い奴だったのになあ」

 埋葬が終わってもなお、益市はぐすぐすと泣き続けた。吉三郎は仏頂面のままだったが、益市と全く同じ心持ちである。

「なんでだよ」

 ――いや、俺のせいか。

 懐に入れた煙管を取り出す。火にあぶられてすっかり吸い口が捻じ曲がり、もう使い物にならないだろう。犬次は結局、一服もしないままくたばってしまったのか。犬次に火を扱わせるのがどれだけ危ういか考えずともわかろうというのに。

 その夜以来、吉三郎は賭場への出入りをやめた。

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