第11話
今でこそ住処も職も定まらぬごろつきの吉三郎であるが、無論生まれた時からそうだったわけではない。
吉三郎の父は吉祥寺の門番であった。つまり、位は低いながらも武士の端くれなのである。
しかし侍の子といえど、長子と末子でその扱いは雲泥の差である。吉三郎は三男坊、長兄次兄が無病息災である限り無用の長物として扱われる定めだった。実の母からも意に反して出来てしまった恥かきっ子と邪険にされ、吉三郎は大いに荒れた。
街に繰り出しては喧嘩や博打、そのうちやくざ者とも付き合いだすようになり、平然と盗みや喝上げにも手を出す有り様。これには父親の堪忍袋の緒も切れて、ついに勘当されてしまったのが十六、七の時分である。それから十余年、吉三郎は一度たりとも生家の敷居を跨いだことがない。
だが、幸か不幸か吉三郎はしっかりと武家としての教育を施されていた。読み書きに算学、剣術も一通りはできる。ごろつきとしては頭が回る吉三郎は仲間から重宝され、喧嘩もめっぽう強かったので一目置かれる存在であった。
そんな具合に三十路近くまで生き延びてきた吉三郎だったが、その出自ゆえ侍に対しては複雑な感情を抱いていた。刀を提げて歩いている輩を見ると、厳しいことを言うばかりでちっとも吉三郎の言い分に耳を貸さなかった父親を思い出してむかむかする。武家崩れのくせに坊主だ医者だ商人だと上手くやっている連中を見れば呑気にしやがってといらいらする。逆恨みである。だからお七の想い人、
(若衆のくせに
あの日、お七に取り引きを持ちかけて文を受け取った後、吉三郎は苦々しい気分で円乗寺に忍び込んだ。町一番の高嶺の花の心を奪った男とはどんな
勿論、堂々とうろついていたらすぐに見咎められ追い出されてしまう。すぐには中に入らず、庭からこそこそと姿を隠しながら様子を伺う。寺だけあって剃髪の坊主がうろうろ歩き回っている。
(大事にされてる居候様なら奥にいるのかね)
そろそろ中に忍び込んでみるかと考えながら耳をそばだてていると、だみ声で聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「佐兵衛よ、来るが良い」
袈裟を着た人相の悪い中年の僧侶が歩いていく。その後ろをしずしずと、若い男が項垂れながらついていく。ちらりと垣間見える横顔は思わずはっとするほど整っている。あれが
「佐兵衛よ、お主は精進しておるのか」
二人は部屋の中に閉じ篭ってしまったようだった。吉三郎は油断なく周りの気配に注意しながら、戸に耳を当て盗み聞きをする。
「勿論でございます」
「まことか。この体たらくで、嘘偽りなくそう申すのか」
びしり、と警策で叩くような音がした。禅問答でもやっているのか、と思ったが、円乗寺は天台宗である。
「では、このだらしない有り様はなんだ。先の大火で気が緩んだのではあるまいな」
「滅相もございません。私は、念者様に恥じぬよう……」
「女人と顔を合わせたそうだな」
途端、佐兵衛の言葉が途切れた。びしり、びしりと音が響き続ける。
「お主にその気がなくとも、お主の
「……わかって、おります……」
「嘘をつけいッ」
一際鋭い音と共に佐兵衛の悲鳴が上がった。明らかに尋常でない様子にさしもの吉三郎もたじろいだ。
「であれば、どうしてお主はこうも浅ましい姿態を晒しているッ。しかと見てみよ、自らの醜態を。身をよじらせて、腰を突き出して、さながら娼妓のようではないかッッ」
「ひッ……」
「まさかお主、儂にまで情欲に誘わせようというのか。なんと卑しいことよ。まるで獣ではないか。念者殿が泣いておるぞッ」
吉三郎は盗み聞きをやめ、部屋から少し離れてふたりが出てくるのを待った。
しばらくして、坊主が先に出てきた。人相の悪い顔を一層歪め、満足げに笑っている。佐兵衛はさらに時間をかけて、よろよろと重い足取りで部屋を後にした。茫然自失とした様子で歩いているところを吉三郎は近づく。
「よう、色男さんよ。手前が佐兵衛か」
「っ……」
佐兵衛はびくっと顔を上げた。酷く虐められたのか、顔は青ざめ、怯えの色に染まっている。
「ど、どちら様ですか」
「名乗るほどのもんじゃねえ。そうだな、お七の名前を出せば通じるんじゃねえか」
その名を聞いた途端、佐兵衛は面白い程動揺した。やましいことがあると言わんばかりである。
「お、お七さんの……」
「しかし手前、随分と派手に遊んでるみてえだな。大店の娘さんの次は年寄り坊主と来たかよ。某源氏も腰抜かすぜ」
わざと嫌らしい言い方をすると、佐兵衛はますます顔を青白くさせて首を振った。
「ち、違いますっ。誤解です、わたしは……」
「俺の勘違いかよ。だったら、あの坊さんは手前に何をしていたんだろうなあ。信心深くて徳も高い坊さんが若衆捕まえて、なあ」
「それはっ……」
「なあ、佐兵衛さんよ」
吉三郎はずい、と佐兵衛に顔を近づけた。吉三郎の目つきの悪い人相はそれだけで人を慄かせる力がある。
「あの坊さんの言う通りだぜ。手前にその気がなかろうが、手前は人を誘っちまうんだよ。それで貞操を守って禁欲しようだなんてちゃんちゃらおかしいぜ。手前がよ、
人をおかしくさせてるんだろうが」
「…………ッ」
「偉いお武家を虜にしてよ、好い人が居ない時には若い娘を誑かして、しまいにゃ坊さんにまで尻振って媚びやがって。手前はよ、生まれついての色狂いだよ。ええ、この淫乱野郎が」
何ゆえここまで佐兵衛を責め立てているのか、吉三郎は自分でもわからなかった。ただ、目の前の男が腹立たしくてならない。佐兵衛が怯え、縮こまるほど吉三郎の言葉は激しくなっていった。
「お七はよ、今度嫁に行くんだ」
「えっ――」
「当然だ。大店の娘と来たら、由緒の正しい旦那に嫁ぐのが筋ってもんだろ。それが、手前みたいな得体の知れねえ野郎と繋がってると知れたらどうなる。縁談はご破算、お七は誰にも貰われず晴れていかず後家だ。わかるか。手前のせいでお七が不幸になるんだよ」
佐兵衛は目を見開き、しばし息を忘れていた。やがてがたがたと震え出し、ひゅうひゅうと喉笛を鳴らし始めた。
「そ、んな。わ、わたし、は……」
「わかってるよ。手前にその気はねえんだろ。だがな、どうあれそうなっちまってるんだよ。だったらどうすりゃいいのかわかるだろ。手前がお七を不幸にしたくないってんならよう」
最早お七の文を渡すつもりなど微塵もなかった。どうせこの男には隠れて文を交わすような度胸もあるまい。だったらいっそのことお七のことはすっぱり諦めさせて、二度と彼女に近づかぬようにすれば良い。懐に文を隠したまま佐兵衛を睨みつける吉三郎は残酷な企みを練り始めていた。
「あ、あ……」
「お、おい佐兵衛ッ。何してるんだ、そこのそいつはッ」
庭の方から声がした。何か包みを抱えている若い坊主が佐兵衛と吉三郎のただならぬ様子に驚いている。見つかってしまったか。吉三郎は素早く庭に降り、門に向かって駆け出した。
「どこに行くんだッ。佐兵衛、大丈夫かっ」
「仁久さん……」
どさっと倒れ込む音。吉三郎は振り向きもせず走り、誰にも捕らえられることなく円乗寺から逃げおおせた。
佐兵衛をやりこめたというのに、吉三郎の胸は苦々しいもので詰まっていた。とにかく、すべてが気に食わないのだ。佐兵衛のことも、あんな男に惚れているお七のことも。元より抱いていた反感がさらに強まり、膨らんだ悪意は吉三郎を更なる悪事へと駆り立てたのだった。
――けっ。何が恋文だよ、馬鹿馬鹿しい。そんなに現実が見たくねえなら、思う存分夢を見せてやろうじゃねえかよ。
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