第3話
お七達と同じ思いをしていた者は大勢いたらしく、本堂は既に避難者達が詰めかけていた。
必死になって我先にと並べられた着物に手を伸ばす人々を、剃髪の僧侶と髷を結っている若者が
――だから、十分気を付けるんだよ。仏様の前とは言え、どんな不届き者がいるか。
お七はあっという間に人波に飲み込まれ、きゅうきゅうとおしくらまんじゅうをする羽目になった。あちらこちらから押し合いへし合いをしていると気が遠くなっていき、思い出した母の言葉も走馬灯のように過ぎていく。
「ああっ、待ってえ。その帯よく見せてッ」
気がつくとゆきは人ごみのなかをずんずん進んでいき、あっという間に見えなくなってしまった。お七は思うように動けず、なすすべなく波に揉まれるがまま進んだ。
「おいっ、おれの足を踏むんじゃねえよう」
「ああ、ごめんなさい……」
「ちょいとお嬢ちゃん、そりゃあたしの袖サぁ」
「すみませんっ」
ああ、洗われている芋はいつもこんなに窮屈な思いをしているのだろうか。
「お嬢さん。お渡しするのはあなたの分だけでよろしいですか」
やっとの思いで若い坊主の前まで辿り着く。押されて揉まれて、すっかり目を回したお七ははあ、と気の抜けた返事をした。すると坊主は神妙な顔つきから一転、悪戯小僧の顔になった。
「お嬢さんみたいな
坊主が手をやる先に並べられた着物はどれも立派なものだった。古着ではあるのだが、仕立ての良さや生地の上等さが元の持ち主の身分を思わせた。一時借りるだけとはいえ、こんなに良いものを使わせてもらっていいのかしら、と触れるのも
「まあ……」
振袖である。それも公家や武家の子が着るような、香の炊きしめられたものだった。鮮やかな朱に染められた上に幾つもの花や蝶が美しく細やかに刺繍されている。お七は疲れも忘れしばし目を奪われた。
「ああ、そりゃあ確か花嫁衣裳ですよ。どこぞの姫様が嫁入りの時に仕立てさせたとか」
「花嫁衣裳……」
多くの娘がそうであるように、お七もまた、花嫁に憧れを抱いていた。知らない男に嫁がされるのは勿論嫌だが、艶やかで美しい着物を纏って好い人と歩くのはどんなに幸せなことだろう。
恋――そんなものは貸本や芝居の中にしかないのはお七も重々わかっていた。どんなに好き合ったところで、家柄や身分に差があれば心中する以外に添い遂げる道はない。自分もいずれ周りが決めた夫のところへ嫁ぎ、その人を主人と慕わねばならないのだ。
それでも。
(このお姫様はどんな風に嫁入りしたのかしら。恋を……したのかしら)
お七は振袖の中に恋の幻を見出し、うっとりと思いを馳せた。
「お嬢ちゃん、その振袖が気に入ったのかい」
いつの間にか馴れ馴れしい口調になった坊主に声をかけられ我に返る。
「え、ええ……」
しかし、この着物を借りるわけにはいかない。贅沢な模様で如何にも目立ち、周囲から妙な目で見られるだろう。大火に遭って晴れ着を着るとは何事か、と父からも叱られるに違いない。
悩んでいるお七に若僧はにっと唇を吊り上げた。
「じゃあ、これはおまけだ。俺が丁度良いのを見繕ってあげるから、ついでにこれも持っていくと良い」
「えっ……でも」
借りるのはひとり一着までと他の坊主が言っていたはずだ。しかし目の前の青年はとても僧侶とは思えないにやにや笑いで「いいのいいの」と
「どうせほかの人も着られやしないんだ。ここにあったって、坊主が着るわけもなし。長持の中で腐らせるくらいなら、お嬢ちゃんみたいな別嬪さんが着たほうが供養になるってもんさ」
軽薄な口調でいいかげんなことを言うと、適当な小袖を見繕って
「あ、あの」
「ほら、後ろの人が待ちくたびれてるよ。早く行きなッ」
有無を言わさず列から弾き出される。振り向くも、さっきの坊主は人波の奥に隠れて見えなくなってしまった。まだまだ押し寄せる人々に、お七は部屋の外まで押し出される。茫然としていると、目当ての着物を手に入れたらしいゆきがほくほく顔で近づいてきた。
「見て、こんな素敵なものうちじゃ絶対買えないわ。お七も良いの借りられた?」
「う、うん……」
なんとも言えない後ろめたさに、お七は曖昧に笑って小袖を後ろ手に隠した。
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