第13話
――お武家のことは、わたしにはわかりません。
――わたしは商家の娘で、物知らずでございます。
お七からの返事は、それまでよりも重く落ち着いたものだった。
――けれど、あなたさまがお武家らしくないからと言って、あなたさまが劣っているだとか、おかしいとは決して思わないのです。
――わたしは、ありのままのあなたさまをお慕いしています。
「そりゃあ好きなんだろうよ。佐兵衛のことが、な」
吉三郎は複雑な心境でいた。自分のことを“佐兵衛”のこととして語り、お七にそれをどうこうと評され、どんな顔でいれば良いのかわからない。勿論、続けている限り銭を手に入れられるので、今更やめようとは思わぬのだが。
「手前はよう、なんにもわかってねえんだ。俺の金蔓なんだよ」
ぼやきながら筆を動かす。吉三郎の心中とは裏腹に、文の中の“佐兵衛”は活き活きと語りだす。
――不思議な心持ちです。こんな風にあなたからの文を読み、あなたへの言葉を考えていると、今まで誰にも明かしたことのないことでも打ち明けたくなってしまうのです。
わたしは、生まれてこの方、今日までずっと、自分の居場所というものがわからないでいました。
生まれた家は針の
今の暮らしでも、本当にここが自分の居るべき処なのか、はっきりと信じきれないのです。目が覚めたら、まったく違う場所に居るのではないか。顔馴染みに忘れられていたり、あったはずの自分の席が無くなっていたりはしまいか。ふとそんな考えが度々浮かび、恐ろしくてたまらなくなるのです。
きっと、自分の意思で何かを決めたことがないからなのでしょう。わたしの人生は、いつも誰かの御心や何かの流れに流されるままだったのです。自分で決めてここに居るのではないから、いつかまた、流されるがままに居場所を失ってしまうのではないだろうか、と考えてしまう。
だから――あなたからの文、あなたへの文だけは決して途絶えてほしくないと思います。
これだけはきっと、己の意思によるものであるから。
――やっぱり一緒ですね、わたし達。
お七からの書き出しはこうであった。吉三郎はなんとなく、お七の柔らかな笑顔を思い出す。
――わたしも、結局父や母の言いなりでしか生きていけないのです。どんなにあなたさまをお慕いしていても、両親に逆らってあなたさまのところへ行く勇気が出ないのです。
本当はあなたさまのところへ行きたいのに。もう一度、お話がしたいのに。臆病で、今の居場所を失ってしまいそうなのが恐ろしくて、結局何もできないのです。
それでも――あなたさまを愛しく想う心には偽りはございません。
ああ、あなたさまの傍へ行って、寄り添うことができたら良いのに。わたしこそが、あなたさまの
――いいえ、今更何を仰いましょうか。
――お七さん、あなたは既にわたしの居場所も同然です。
自分が何ゆえこんなことを書いているのか、吉三郎自身わからないでいた。
まるで、こうしてものを考えている自分と、筆を握り文をしたためる自分がまったくの別人になってしまったようだった。
否――、それは確かに吉三郎自身の本音である。佐兵衛の名を騙り、大嘘ばかり吐いているというのに、その中に込めた心情は真のものに他ならなかった。
しかし、読んでいるお七にとってはこれはあくまで佐兵衛のこと。狡猾で悪辣なならず者の吉三郎とはまるで関わりのないことなのである。なればこそ、誰にも言えないようなことも気兼ねなく吐き出せるのだろう。
父であれば叱って頭ごなしに否定するようなことも。母であれば鼻で笑って耳も貸さぬようなことも。ごろつき仲間なら馬鹿にして見下されるような恥ずかしい話も。
――嬉しい。
――佐兵衛さま、わたしも同じ気持ちです。
お七は真剣に、親身になって受け入れてくれるのだった。
「お七や、お七ったら」
月は如月に変わり、ある日のこと。とっぷり日も暮れた八兵衛の店。夕餉の刻限になっても顔も見せない娘を心配したお峰は、近頃動きの悪くなった足腰をよいしょと動かしてお七の部屋へ向かった。
「何っ、どうしたのおっかさん」
「どうしたのってお前、夕餉だわよ。腹も空かないのかい」
薄暗い部屋の中でびっくりして慌てている様子の娘に呆れて溜め息をつく。容態はとっくに良くなったはずなのに、どういうわけか上の空の病はまだ治らぬらしい。
「あら、そうだったわ。待ってちょうだい、今行くわ」
文机に散らかした紙を片付けだすお七。それなら早く来るんだよ、と声を掛け、お峰は下がろうとして、ふと妙に思った。
(はて、なんだかおかしいね。お七の部屋はこんなだったかね)
いやに部屋が片付いている、というか――物が少なくなっているように感じる。お七は元々几帳面で、部屋をみだりに散らかす娘ではなかったが、それでも年頃の娘の部屋というものはあれこれとこまごましたものが置いてあるものである。いくら大火で私物が焼けてしまったとはいえ、もっと色々とあったように思うのだが……。
(気のせいかねえ。薄暗いし、遠目の上に鳥目になってきちまったから)
違和感に首を傾げながら、お峰はよいしょよいしょとお七の部屋を後にした。
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