第9話

「お七ちゃん、もう体は大丈夫なの?」

 お七の容態が快復したと聞いて駆けつけてきたものの、ゆきの胸にはまだまだ不安は残っていた。お七の落ち込みの理由は風邪ではなく、きっと佐兵衛とかいう男のせいに違いないのだ。しかしお七は少しやつれながらも晴れやかな笑顔を見せた。

「ええ、平気よ。ごめんなさい、心配かけちゃって」

 そう言って眉を下げながら笑うお七はいつも通りであるように見える。

「本当なのッ。無理していないわよねっ」

「うん」

 お七は懐をおさえてはにこにこと微笑む。何か良いことがあったようだ。

「ね、ゆきちゃん。久しぶりに一緒に出かけましょ。もう町並みも元通りになってきたわ」

「そうね……」

 あの大火から気づけば二十日も過ぎた。お七やゆきの家を始めとした江戸の町の店はほとんど再建されている。災難に見舞われても立ち直りが早いのが江戸っ子の気質なのである。

 ゆきも昨日までは店の手伝いに明け暮れていたが、開店の準備が整ったのと以前からお七を心配する自分の娘に同情した両親が久々の暇を許したのである。年越しそばも餅もろくに食べさせられなかったから、といつもより多く小遣いも渡してもらえた。

「それにね、買いたいものがあるのよ。紙と墨を切らしちゃって」

「へえ、店のお使い……じゃないわよね。何か習い事でも始めたの?」

 ゆきの問いに、お七は悪戯っぽく笑って「ひみつ」と答えた。

「もう、なんなの。教えてくれたっていいじゃない」

「もう少しだけ秘密にさせて。今度教えるから」

「しょうがないわね……」

 隠し事なんてお七らしくはない。けれど、お七の性根からして悪いことではないだろうと思った。

「絶対よ。じゃあ、今日は思いっきり遊びましょうッ」

「うんっ」

 ――きっと、佐兵衛って奴のことは吹っ切れたか、そんなこと忘れるくらい良いことがあったに違いないわ。

 お七の明るい笑顔にそう信じ、ゆきはお七を町へ連れ出した。




「出かけてたのかい」

 お七が外出から帰ってくると、店の裏口に待ち構えていたように男が立っていた。薄汚れた着流しを着た、ろくに手入れもせず伸ばし放題の無精髭を生やす見るからに不逞なごろつきである。その姿を認めたお七は喜色に顔を綻ばせた。

「吉三郎さんっ。もうお返事を貰えたんですか」

「落ち着けよ。騒いだら他人ひとに見られちまうぜ」

 慌てて口をおさえる。そんなお七に吉三郎はくくっと笑った。

「ああ、間違いねえよ。ただその前に、だ」

「そうでした。ええと……」

 右手をを差し出してくる吉三郎を前に懐を探る。吉三郎が要求しているのは、勿論金子である。

 ――事の始まりは数日前、吉三郎に全ての事情を打ち明けた時のことだ。

「それで、お嬢ちゃんはどうしてえんだ。そのなにがし殿に文を渡せりゃいいのか」

「それは……」

 吉三郎の問いにお七は俯いた。渡したところでどうにかなるとは思っていない。抑えきれなくなった想いを文にしてしたためたはいいが、きっとまだまだ想いは募る一方であろう。元より叶わぬ恋ならば、これ以上の手出しは無用なのである。

「渡さない方が良いのはわかっています。きっとあの人にも迷惑が……」

「じゃあ、諦めるのか。愛しい人のことは忘れて、親父さんが見繕った旦那様についてく道を選ぶってのか、お前さん」

「…………」

 勿論、それは望むところではない。とはいえ、いつか覚悟しなければならぬことではあった。

「なあ、お嬢ちゃんよ」

 沈黙したお七に、吉三郎はいやに愛想の良い笑顔を浮かべた。

「俺ぁひょっとすると、お前さんに協力できるかもしれねえぜ」

「どういう、意味ですか」

 怪訝な顔になるお七に吉三郎は指を振りながら語る。

「その某もお前さんのことを憎からず思ってるんだろ。文を貰って喜ばねえわけがねえ。怖いのは要するに、坊主やお前の親にことがばれちまわないか、ってことなんだ。当然、お前さんが直に会いに行けばすぐにばれちまうだろうが……間に誰かが入っていればどうかな。例えば俺が某に会ったところで、お嬢ちゃんが文を書いたとはそうそう思うめえ」

「それって……」

「つまりよ、俺は仲介役だ。お前さんが書いた文を某に渡す。某がその返事を書いたら、俺が取ってきてお前さんに渡す。そうすりゃあ坊主もお前の親父さんも、まさかお前さんと若衆の某が繋がってるなんてわかるめえよ」

 吉三郎の提案は願ってもないものだった。お七は思わず期待に目を輝かせた。

「じゃあ……っ」

「待て待て、話はまだ終わっちゃいねえ」

 身を乗り出したお七に吉三郎は指で銭を表す形を作った。

「俺だってでこんなことする道理はねえ。俺みてえなごろつきが寺でうろついてたらそれだけで怪しまれちまう。そもそも俺も暇じゃねえんだ。明日の飯にも困ってる時に他人に親切する余裕は本当はねえ」

「文を受け渡してくれる代わりに、御銭おあしを渡せば良いのですね」

「そういうことだ。どうだ、お嬢ちゃんよ」

 吉三郎の意地悪そうな顔を見ても、お七の決断は変わらなかった。乙女の恋心の前には銭などまるで枷にもならぬのだ。

 かくして、お七は佐兵衛への文を吉三郎に渡すごとに百文、佐兵衛からの文を受け取るごとに百文を払う約定を取り決めた。

 ――そのため、お七は今日も吉三郎にこうして銭を払うのである。

「はい、これで百文です」

「確かに」

 紐で綴られた銭の枚数を数え、しかと確認した吉三郎はそれを懐にしまうと袖の下から文を取り出した。お七はほとんど飛びつくようにそれを受け取った。

「佐兵衛さまっ。嬉しい、こんなに早くお返事を頂けるなんてっ」

「良かったなあお嬢ちゃん」

 吉三郎はくつくつ笑いながらお七に背を向けた。

「明後日にまた来るぜ。出したい文があるのなら、その時渡してくれや」

「はい、はいっ。必ずっ」

 お七はほとんど上の空で相槌を打ち、受け取った文に頬をすり寄せた。

 ――佐兵衛さま。ああ、佐兵衛さま。こんなのって夢みたいだわ。吉三郎さんはきっと、仏さまの使いなのね。

 お七は急ぎ足で自分の部屋へ戻ると、佐兵衛からの手紙をさっそく読み始めるのだった。

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