第26話

 仁久は頭を抱えていた。

 八百屋お七の火付け――今月の初めに起きた火事は円乗寺でも話題となっていた。

 何しろ檀家の娘で、ついこの間までここを仮住まいとしていたのだ。その両親が建てたばかりの新居を失い転がり込んできている。顔馴染みが咎人となったと知っては坊主達も穏やかではいられない。仁久も知ったときは腰を抜かした。

 もうお裁きが下り、月末には火あぶりにされるらしい。惨いことである。火刑となった咎人は墓に葬られることも許されない。裁かれた当人は勿論、残された両親の悲しみは計り知れない。肩を落として歩く八兵衛夫妻を見るたび、仁久はやりきれない気持ちになる。

 しかし、一番の気がかりは佐兵衛であった。

(もしも、このことをあいつが知れば)

 佐兵衛は未だ床から離れられない。日増しに弱っていき、このままでは念者が戻ってくる前に命が尽きてしまうかもしれぬ。ただでさえ弱っているところにお七の事件が耳に入ればどうなるか。真面目な佐兵衛のこと、腹を切るとまで言い出すかもしれない。

 幸い、病みついている佐兵衛を慮ってか、坊主達は誰もお七の話を伝えていないようである。このまま上手くいけばお七の悲劇を知ることなく、念者との生活に戻れるかもしれない。きっと佐兵衛もその方が幸せだ。

 しかし。

「……仁久さん。どうかなさいましたか」

 は、と顔を上げると、夜具から半身を起こした佐兵衛が仁久の顔を心配そうに覗き込んでいた。今日はたまさか加減が良いのだ。

「先程から溜め息ばかり。何か、悩みごとでも」

 傍から見て、口から生まれてきたと称されるまで饒舌な仁久がほとんど口も利かず嘆息を繰り返しているのは異様な光景であった。まさかお前の為に悩んでいるとは言えず、仁久は慌てて笑顔を作る。

「そうそう。俺、この間から庫裡の方に回されてるんだけどな。先輩の兄さん達がやれ米の研ぎ方がなってないだの、それ皿の洗いが雑だのって口うるさいんだ。こちとら経もまともに覚えてないのに料理まで覚えてらんないって」

 冗談めかして言うが、佐兵衛は笑わずますます眉をひそめる。落ち込んでいる仁久が心配でたまらないらしい。

「……本当に、それだけなのですか」

「おいおい、寝込んでるお前に心配されたら俺の立つ瀬がなくなるよ。お前は自分の体のことを考えとけって」

「しかし……」

 なおも食い下がる佐兵衛に仁久はああっと声を上げた。

「そうだ、俺掃除するのを忘れてたよ。早くやらにゃあ叱られちまう。悪い佐兵衛、また後でな」

「仁久さん」

 そそくさと退場する仁久に佐兵衛は悩ましげに唇を噛んだ。




「佐兵衛、てえのがお七の片恋相手か」

 お裁き以来、すっかり魂が抜けた面構えで日々を過ごしていた八兵衛はふいに呟いた。

「この寺に、そいつもいるんだな」

「それがどうしたって言うの」

 お峰は心ここにあらずといった様子である。

「全部、吉三郎の奴が悪いんだよ。ここの御仁は何一つ関わっちゃあいないって。勝手に名前を使われて、あちらさんも迷惑千万だろうさ」

「そうさなあ」

 そんなことはわかっている。しかし、わかっていても腹は収まらぬ。

 元はといえば、その若衆がお七の心を奪ったせいであろう。お七は口を割らなかったが、八兵衛とて馬鹿ではないのだ。お七の乱心の理由が、吉三郎に恋心を弄ばれた末だと気づかぬわけがない。

 無論、本物の佐兵衛には非はなかろう。だが八兵衛はお七の父親である。知らぬうちに虫が寄り付いて、可愛い一人娘が咎人にされたのだから心穏やかではいられない。当てつけ、八つ当たりとわかっていても佐兵衛を責めたくて仕方がない。

「お止しよ。相手はお武家だよ。つまらないことで父親が斬られたら、いよいよあの子が救われない」

 そんな八兵衛の思いを察し、お峰はいち早く牽制した。

「お前は知ってたのか。お七が岡惚れしてたって」

「知ってたら、こんな風になるまでほっとかなかったさ。ああ、でも、可哀想だよ。嫁にも行けず、愛しい人の顔も見れず、あんなおっかないところで死ななきゃならないなんて」

 はあ、とお峰は湿気った息を吐いた。それこそ考えても詮無きことではあるのだが。

「おばさま、おじさま」

 と――そこにひょっこりゆきが姿を現した。

「なんだい、於ゆきちゃんじゃないか。こんなところに、お店はどうしたい」

「今日はお暇を貰ったわ。それよりおじさま達、今日は相談があるの」

 娘の幼馴染のゆきは八兵衛達にも馴染んだ顔である。平素は明るい少女だが、神妙な表情で八兵衛達に臨んでいる。

「お七のことかい」

「ええ。おじさま達もご存知でしょうけど、お七ちゃん、好いた人が居るのよ」

 ちょうどその話をしていたところである。

「やったことはしょうがないわ。お裁きも変えることはできないでしょ。でも……このままじゃお七ちゃん、可哀想。多分、生まれて初めて好きになった人なのよ」

「於ゆきちゃん、まさかお前さん」

「逢わせてあげたいのよ。最後に、一目だけでも」

 ゆきの顔は真剣そのものである。冗談やからかいではないだろう。

「お願いします。おじさま達にとっては不愉快な話でしょうけど、最後だけでもあの人の顔を見せてあげたいの。許してくれませんか」

 ゆきはそう言って畳に膝と手をつき、八兵衛夫妻に深々と頭を下げた。

「よ、止しな。よその娘さんにそんなことさせるわけにはいかないよ。ねえあんた」

「………………」

 慌てるお峰に対し、八兵衛は憮然としていた。確かに――ゆきの言う通りなのかもしれぬ。愛娘が罪に手を染めるほど心奪われ愛した人なのだろう。しかし、そう思えば思うだけ八兵衛は佐兵衛が憎くなるのだ。逢わせてやるべきと良心が訴え、何がなんでも逢わせてなるものかと父親心が意地を張る。結果八兵衛は硬直し、うんともすんとも言えなくなってしまった。

「ちょっとあんた、何にしたってまずは言いな。よその娘さんが頭まで下げてるんだよッ」

 お峰に叱責されても八兵衛は動けない。このまま不動でいれば、ゆきも諦めて引き上げてくれるだろうか、とまで考えてしまう。しかし――そこによろよろとおぼつかぬ足取りで、またも訪客が現れたのである。

「――そのお話、わたしにも聞かせてもらえないでしょうか」

 世にも美しい姿の若衆は青白い顔でそう言った。

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