第7話 僕は黒猫でもあるらしい

 僕らはしばらくじっとしていた。影は相変わらず手応えがなく、僕は長瀬が千切れてしまわないように内心汗をかきながら、手だけは抱き締める形に回していた。


「長瀬は」


 影の見た目は自分で嫌いみたいだけど。そんなことを彼女の母親は言っていたっけ。


「長瀬は綺麗だよ」


 黒い影が、僕の腕の中で揺らいだ。


「……だって、私、戻れなくて、こんな真っ暗で」

「戻れないのは困るし、消えちゃっても困るよ。でも、今の長瀬は綺麗だ。そうだな、夜みたいだ」


 それは僕と余市が同じく考えていたことだ。長瀬夜子はまるで夜の化身で、ひんやりとしたクールな女の子。そんなイメージも、きっと全くの間違いではなかった。


「長瀬はさ、僕らが何かに変身してしまった時、怖かったと思う。一生懸命になって戻してくれた。ありがとう。だから、僕も他の奴の時は頑張った。一緒に頑張ったよな」


 ただ、と僕はずっと走りながら考えていたことをどうにか言葉にしようと試みた。


「たださ。変身って、本当に悪いだけのものかなって、思ったんだ」


 長瀬が身じろぎするのを感じた。どうかこのままここにいてくれ、と願う。


「もちろん、しんどいから変わってしまうのは確かみたいだし、さっきも言った通り戻れないのは困る。だから、そう簡単に起きちゃいけないことだとは思うよ。余市みたいに迷惑なことをされても嫌だし。でも、でもさ。僕は『できる』って思ったんだ」


 飛んだ風船を取り戻しに木に登った時。『誰か』を追いかけて身を潜めた時。あの時、僕は猫そのものになりたいわけじゃなかった。ただ他に目的があって、猫の姿でならそれが可能だった、そういうことだ。伴も同じだろう。


 『なりたいもの』と『やりたいこと』。そういうことだろうか、と僕は思う。僕はずっと、僕は。


 誰かに手を差し伸べたかった。


 初めは猫になりたい、夜に溶けたいとそれだけだった。でも長瀬がいて、伴のことがあって、細野と仲良くなって、クリスマス、正月、余市との追いかけっこ、そしてまた長瀬夜子。


 猫は、もうひとつの僕の姿は、いつの間にか目的ではなくなっていた気がする。今回だってそうだ。どんな姿でもいい。僕は三田村真也で、長瀬を助けたいとそれだけだった。それだけだったんだ。


「僕はこの手で長瀬を助けることが『できる』と思いたい。どんな姿でも。だからずっと走ってきたし、これからもそうする。その影の姿だって、きっと意味がある。長瀬は長瀬だ」


 猫の姿で駆けたっていい。もうひとりの自分に好きな格好をさせたっていい。石になってじっと本当の自分を見つめたい時も、別の誰かの姿で人混みに紛れたい日もあるだろう。影なら、隠れて物陰に潜むのにぴったりだ。誰でもない、何でもないものになりたい時だってあっていい。戻って来ることさえできるのならば。


 僕の腕の中で、ゆっくりと影が形を取り戻していった。まだ黒い見た目だが、戻りつつある。


「もうひとつの姿は、世界のバグみたいなものかもしれないけど。でも、やっぱり僕らなんだと思う」

「私も?」

「うん。黒くてひんやりした、綺麗な長瀬夜子だ。カップ麺食ってる長瀬も同じくらい好きだけどね」


 少しずつ、体温が戻ってくる。頬に触れる、長い髪のさらさらした感触。


「僕は長瀬が好きだよ。でも、友達でもいたい。両方がいい」


 身体を離した。あんまり長瀬がふわふわと柔らかいので、少し不安になってしまったのだ。


「僕らは三田村真也と、長瀬夜子でいよう。どんな姿でも僕らでいよう。まずはそうしよう」


 長瀬の白い肌が、ぼんやり遠い明かりに浮かび上がっていた。黒い大きな目が何度も瞬きをした。


「あとは……」


 その時。不意打ちだった。元に戻った瞬間、長瀬はぐいと僕に顔を近づけ、唇を唇に掠めたのだ。


 ものすごく柔らかくて温かいものが通り過ぎた、そんな感じだった。


 長瀬はそのまま僕の胸に額をつけ、押し黙ってしまった。口は利かなかったが、それでも泣いたりはしていないようだった。僕は左手をしばらく宙で上下させ、思い切って長瀬の頭に置き、髪の毛のあまりの触り心地の良さにびびってまた手を離し、と情けなく動いていた。


 ポケットが軽く震えた。伴からの連絡が何件か入っていた。慌てて長瀬を見つけたこと、僕らふたりともちゃんと戻ったことを伝える。長瀬はまだ顔を上げていなかった。でも、そこに白い綺麗な顔があることはわかっていた。僕らはこれからたくさんのことを話し合って、絡まった気持ちをほぐして、そしていつか幸せになるのだと、そう思った。




「私、自分の下の名前があんまり好きじゃなかったの」

「夜子?」

「そう。特に影になるようになってからは。暗くて嫌だなって思ってた」


 でも、三田村くんは綺麗だって言ってくれるんだね。長瀬は空を見上げる。僕らはゆっくりと駅前に向けて歩き出していた。道には少しずつ色とりどりの明かりが増えていく。空には小さな星がいくつか。細野なら名前がわかるだろうか。


「あ。あれは知ってる。オリオン座」


 遠くの空を指差す。特徴的な三つ星が並んでいた。近くには比較的明るい星もある。


「さっき、ずっとあの曲思い出してたんだ。サードマグニチュード」


 三等星の名を僕は呼ぶ。それは見えているのかどうかもよく知らない明るさの星で、でも確かに空にはあって、音楽はずっと僕の中に流れている。


「私もさっき、思い出してた。……三田村くんの腕の中で」


 ブレイク。僕の心臓は跳ねた。


「今度またうちに来て。一緒にふたりで曲を聴こうね」


 僕は今猫ではなかったので、右手で長瀬の白い左手をしっかりと握って歩いていた。


 猫でなくて良かったな、と思ったのは、思えばあの夜、やっぱり長瀬の手を握った時以来だったかもしれない。




 伴は僕らより早く戻っていて、駅前通りのところで呉さんと何か話していた。大丈夫ですよ、三田村はいい奴ですから、とか、うるせえな、心配して何が悪い、とかなんとか聞こえた気がする。僕が繋いでいた手をこっそり離して声をかけると、呉さんはずかずかと近づいてきて大きな声でこう言った。


「お前は……お前、夜子、お前なあ……!」


 ごめんなさい、と長瀬が頭を下げる。その肩に呉さんの大きな手が置かれた。


「……ちゃんと戻ってきたな。休め」


 ごめんなさい。声色が滲んだ。親子のようでそうでもないのかもしれないふたりの関係は、やっぱり叔父と姪、というくらいの距離感が合っているように思えた。




 事務所に戻ってくるとぎょっとした。ソファの上にはあの灰色の石がごろりと転がっていたからだ。


「あ、ごめんごめん。大丈夫。戻る」


 人に戻った細野がスッと顔を上げ、長瀬ちゃん!と声を上げる。いつもの切れ長の目がそこにあった。彼女は観葉植物の鉢を示す。


「お母さんとちょっと話してた。石の方が話しやすいかなあって」

「大丈夫なのか?」

「今のとこね」


 何を話してたのか、と軽く聞くと、内緒、と返される。


「お説教したりされ返したりした」

「お前度胸あるよな……」


 さっきの流れからこの木に積極的に関わろうとするなど、僕にはあまりできそうにない。


「あのさ、長瀬ちゃん。お母さんはまだ話したくないみたいだし、長瀬ちゃんもいろいろあると思うんだけど、でも……」

「……うん」


 長瀬は眉を下げて力なく頷く。


「私はお母さんと話したいけど、仕方がないよ」


 呉さんは、なんとも苦い顔をしてガムを噛んでいた。この人の恋人への気持ちは、一体どんなものなのだろうか。僕と長瀬の間にあるものとは、やっぱり変わってしまったんだろうか。そんな気まずい沈黙が訪れかけた瞬間だった。


「……少しは、悪かったわよ」


 小さく一言。女性の声が流れて消えた。


 僕と伴と細野とは、長瀬が今度こそ大声で泣きだすのをどうにかなだめようと必死だった。十五分くらい、かかったと思う。




 さて、これは、僕の失敗の話だ。十七年間の人生でいくつも犯した失敗の、ほんの一例の話だ。長瀬とちゃんと話をできなかったこと。彼女の異変と苦しみを早くわかってあげられなかったこと。それから。


 僕はいつかの伴と同じく、誰かと付き合うならちょっと格好をつけようと肩に力を入れていた。相手は誰であれキスは絶対にこちらからするのだと、そう心に決めていたはずだったのだ。それが、見事に不意を突かれた。完敗だった。


 長瀬夜子は、いつだって僕の予想を軽々と飛び越えていく女の子だ。だから僕は、僕の失敗をせいぜい好きになろうと思う。夜の暗がりと、冴えた空気と、空に瞬く星を見つめる時のように。


 そして同様にひとりぼっちで泣いていた、本が好きで、家族と友達が大事なただの女の子を、僕はずっと愛していく。僕がそう『できる』と思う限り。

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