第3話 誰かの姿が見えたらしい
「数学?」
そう、特に数B、ベクトルとか、と細野は続ける。
「なんで。お前怒ってたんじゃないの」
「え、なんでって、あたしが今大変だって思い出したから。余市、ノートちゃんと取ってたでしょ。参考書もめっちゃ積んでたし」
「いや、細野。今そういう場合じゃ……」
僕は弱々しく遮ろうとして止めた。細野はいつも明るくテンションが高いが、空気を読むのは得意な方だ。さっきまでは深刻な顔をしていたし、状況が理解できていないわけがない。
「そういう場合でも怒っててもなんでも、あたしは数学と理科をやんなきゃいけないし、絶対理学部に行くの。自分で決めたから。あたしには明日とか明後日があるの」
そんで、今ちょうどいいやって思ったから言ってる。その声は堂々としているようで、ほんの少し震えていた。
何かやりたいことがあるんだな、と僕は見守ることにした。そうだ。こいつはいつも、思いついたことはなんでもやらずにいられない性格なのだ。
「余市の見た目がどうでも、今まで勉強してきたことは覚えてるんでしょ。あたしに教えてよ」
「やだよ」
「えー、できないんですかー。クラス一の秀才がー? ウケる」
今度は挑発を始める。ものすごく一生懸命にだ。ハラハラと見守りながらも僕は、少しだけ、ほんの少しだけ余市の様子が変わったような気がしてきた。なんとなく、苛立っている?
「お前、俺が今までいろいろ話してたり、お前らの邪魔したりとか、そういう……」
「うん、そうね。余市が意味わかんないくらいいろいろ考えてるのは聞いてたよ。あたしもいろいろ考えたし。あと大変だなあって思った」
そうして、細野みかげはぴっと姿の定まらない相手を指差す。
「あのね。あんたの中身は余市卓だよ」
その言葉は、余市にとって半分呪いみたいなものであったかもしれない。一瞬だけ、眼鏡の余市卓が見えた気がした。それでも、一瞬だけだ。奴はすぐにクラスの誰かに似た顔に変わってしまう。そして目を見開く。
「新井になったって、足が速くなんかならなかったでしょ。先生になったって、わかんないことはわかんないでしょ。でも余市は遅刻したことはないし、休んだ人にノート貸してくれるし……」
「だからなんだよ。それ、わざとだからな? 外面。全部嘘。もう終わり」
「じゃあ、嘘じゃない余市をもっと教えてよ」
余市は、人の顔でそれは良くないだろう、というくらいギリギリに表情を歪めた。
「あたし余市のことよく知らなかったから。数学は好き? そうでもなかった?」
「す……」
数学のすなのか、好きのすなのか、好きじゃないのすなのか。彼は口ごもって、そうして続けた。
「嫌いじゃねえけど、そんなのはどうでも……」
「おお、そりゃそうだよね。嫌いなことをあんなに一生懸命できないもんね」
余市卓は真面目で、真面目すぎた。答えてしまったところで、細野のペースに呑まれてしまった。
「ともかく、あたしが地学をやりたい細野みかげなのとおんなじ。どうやったって、あんたは数学頑張ってた余市卓!」
石ころのパワーを思い知れ、とばかりにクラスに五人もいる黒髪セミロングの女の子は、誰にも真似できない顔で笑った。細野は、偉い。強い。余市は明らかに、心のどこか柔らかい場所をぎゅっと掴まれたような顔をしていた。
そっか、三田村ならもっと余市がどんな奴なのか知ってるかも、と細野は僕に突然ボールを投げてくる。だから僕は、僕も諦めないことを決めた。前は埋もれているとばかり思っていた。でもこいつは、時々急に星みたいにキラキラ輝くんだ。彼女が切り開いたこの瞬間を、逃してはならないと思った。
「余市」
僕は急いで続けた。細野が投げたボールを受け取るように。
「僕は一年の時の余市を知ってる。何のゲームで対戦しても、絶対クソうぜえ動きで負かされた。そういや昔から性格悪かったの知ってたわ」
連勝記録更新だ、と彼は嬉しそうに笑っていたっけ。そうだ。二年になってこいつが学級委員になった時、大丈夫かなこのクラスって少し面白かったんだ。本当は、もっと後で思うべきだった。何もかもそつなくちゃんとやろうとする余市を見て、大丈夫かなこいつ、って心配するべきだったんだ。いつの間にか僕は、あの時確かに見ていたはずの本当の余市を忘れてしまっていた。
風が吹く。長瀬の髪が、葉の落ちた木がはらはらと揺れる。僕は揺れない。大丈夫。何度だってやり直す。
「お前がそうしてる限り、僕らはまたお前を見つけるよ。何度でもお前の中に余市卓を見つける。僕は諦めない」
瞬間、余市は何かに抵抗するように、首を仰け反らせてわなないた。そのままがくんとしゃがみ込み、頭を抱える。何人か、もう誰なのかもよくわからない顔が過ぎ去って、そして消えた。頼む、もうちょっとなんだ。耐えてくれ。
「俺、ここしばらく……三年ぶりくらいに怒ってるんだけど」
伴が不機嫌そうな顔をしてぼそりと呟く。大丈夫か、とまた少し肝が冷えた。でも、背の高い伴は同じようにしゃがんで、小さな花を見つめるように目線を合わせた。いつだってこいつはいい奴なんだ。友達の件で死ぬほど頭に来ている時だってだ。
「それ考えると、お前は大した奴だよって思うね。前から発表とか、喋るの得意だったろ。こういう活かし方をされるとは思わなかったけどな」
口ゲンカじゃ絶対勝てない。そこは俺の負け。よくわかった。伴は両手を手を上に上げる。
「全部水に流して仲良しになろうとか、そういうことは言えないし、余市くんもそういうの嫌いでしょう」
長瀬夜子は続けて手を伸ばす。僕があの夜、確かに彼女に救われた時のように。誰より友達に焦がれていた泣き虫の彼女は、冷えた凛とした強さも持っていた。まるで夜空のように。僕が好きな長瀬夜子の中には、余市が好きだった長瀬夜子もちゃんといたんだ。
だから、見てくれよ。僕らが好きなこの子は、こんなに綺麗で、すごい子なんだぞ。
「またあの追いかけっこをしたいとも思わない。でも、楽しかったね、余市くん。もっと全力で遊べればずっと良かったんだけど。ああいうことするの、向いてると思うよ」
手は振り払われた。僕らの呪いは続く。余市はぐちゃぐちゃに誰とも言えない顔になりながら、必死でもがいていた。でも、きっとそれだけじゃいけない。呪いで終わらせてはいけない。この世界はゲームじゃなくて、人は倒して終わりの敵とかじゃない。余市は、ちょっとバグってしまっただけの、僕の友達だ。
「余市」
僕は、ゆっくりと奴の横にしゃがみ込んだ。
「これ」
かわいい熊のぬいぐるみが写ったジャケット。曲はテンポがいいのに、毎回歌詞が絶妙に暗いスリーピースバンド、ホフマンズの3rdアルバム。僕は鞄から取り出したそれを、だらんとした余市の右手に握らせる。長瀬。ありがとう。持ってきてくれて良かった。僕もこれが好きで、きっと余市も気に入るんじゃないかと思ってる。
余市。勉強とか、学級委員の立場とか、親とか家とか、お前が振り捨てようとしたものでお前はできてる。でも、お前の中にはお前が好きなものでできた部分だってあるだろ、と僕は言いたかった。僕は知っている。僕は猫になったって音楽を捨てられなかった。あの時長瀬が繋げてくれた。今、それをお前に渡す。僕はずっと、誰かにこういうことをしたかったんだ。
「貸す。貸すってことは、後で返せよってことだ。約束をしようってことだ」
余市はもう片方の手で顔を覆って固まっていた。
「感想聞かせてほしい。誰でもないお前の感想だよ。僕は待ってる」
ずる、と左手が落ちた。
「また教室で会おう、余市」
僕の言葉が残り半分の祝福になったかどうか、それはわからない。ただの呪いの駄目押しだったかもしれない。でも、とにかく余市の顔は——眼鏡をかけたちょっと線の細い、一見真面目そうな学級委員のそれに戻っていた。
僕らはいろんな言葉を繋いだ。わかったようなこととか、わからないこととか。全部が全部正解だったのかもわからない。全部少しずつ当たりだったのかもしれない。中には的外れなこともあったのかもしれない。呪いをかけた。攻撃だってした。
でも、とにかく余市卓は今ここにいる。
「…………」
彼の唇がぱくばくと動いた。目が薄く開いた。僕を見た。そして言った。
「……何泣いてんだ、三田村」
「うるせー」
人前では泣かないことにしている僕は、目の端をぐいっと拭う。そうして言ってやった。
「お前の眼鏡、指紋だらけになってんぞ」
余市は眼鏡を外す。レンズを見てため息をつく。少しだけ無防備な自分の顔を触る。なんとなく、戻ったのだとわかったのだろう。どっとくたびれたように肩を落とした。
俺は余市卓、か、と根負けしたように一言呟く。そして、ほんの少しだけ笑った。
「……あーあ。また俺になっちまった。お前らひどいよ。全部引っ剥がすんだもんな」
ひゅう、と細野が小さく息を吐き、壁に寄りかかった。伴はようやく眉間に入れた力を抜いた。長瀬は親が遅くに帰ってきた時の子供みたいな顔になっていた。
校舎の方から予鈴が鳴り始める。僕らはほっとして、それからあ、と口々に言いながら顔を見合わせた。僕は地面に置きっ放していた弁当袋を眺める。もちろんまだ食べてはいない。
意識していなかった空腹が、突如きゅうと音を立てて僕らを襲ってきた。やべえ、次美術だ急げ、とか、お腹空いたんだけどー!とか言いながら僕らは駆け出す。
僕はひとつくしゃみをし、余市の腕を掴んで引っ張って行った。彼は下を向いて、でももう余市卓のままで、その力に抵抗はしなかった。
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