第2話 少しだけ繋いでほしい
僕は瞬きをした。進路調査用紙。それは、僕が猫になって、この変な日常に足を突っ込む羽目になったきっかけの出来事だった。
「何も書かなかったんだろ。先生に怒られてたのを職員室で見た。その後もなんかごちゃごちゃ伴たちに相談してたよな」
僕はたまに、わかんねー、未来ってなんだ、とか教室の隅でぼやいては、みんなに笑われたり、心配されたりしていた。余市に見られているとは思わなかったが、オープンに話していたから別に知られていてもおかしくはない。
「俺にはそんなことはできない」
親の跡を継いで、いい大学に進んで。自分で決めた、と言っていた。だから、余市にはそんな無責任な真似はできない。ちゃんと調べて、志望校を真剣に書くしかない。誰かに相談もできない。一度決めたことを変えるなんて許されない。誰に? 余市自身にだ。
こないだ見た余市の部屋の壁には大学の偏差値分布表があって、やたら上の方に赤い丸がいくつかついていた。受かったら先生たちが掲示を張り出すようなところだ。
「……そんなに嫌なら、今からでもやめろよ。まだ一年あるんだし」
「できねえんだよ! 別に嫌とかじゃない。他にやりたいことなんてない。だから目の前に道があったら、そっち行くしかねえだろ。適当にずるずるドロップアウトなんかして情けなく生きるくらいなら、その辺で飢えて死んだ方がマシだ」
あ、と何かが繋がったような気持ちがした。そうかこいつ、真面目なんだ、と。真面目さで今にも溺れそうになってるんだ。決めたことは守らなきゃいけない。息抜きしちゃいけない。やり方を見直してる暇なんてない。進まなきゃ。進まなきゃ。正しさの道を。
「先生、言ってたろ。迷ってるってことは、これからなんでも書けるってことだ。なんでもいい、ちゃんと書いてこいって」
カタカタと、余市は貧乏ゆすりみたいに身体を揺らす。教室では出来るちょっと愉快な学級委員で、そんな素振りは絶対に見せなかったのに。
お前、選びたかったのか、と思った。『なんでも書ける』から選びたかったのか。悩みたかったのか。なまじいい道がひとつ提示されていたせいで、行き詰まってしまったのか。
「お前は、いいよな」
ついに彼はそう言った。僕の目が、まっすぐに僕を貫いた。
「良くなんてないよ」
僕は言い返す。感情の波に飲まれて、溺れそうだった。肺の中は言葉でいっぱいだ。全部吐き出すのも一苦労だった。頭の中は熱で寝込んでいた時みたいに、クラッシュシンバルのような響きがガンガンした。
「良くなんてない。僕がなんで猫になったと思う。その白紙の用紙から逃げたかったからだよ」
「なんだ、それじゃ結局お前も俺と似たようなもんじゃん」
余市は引き攣った顔で嘲笑う。罠にかかったな、とでも言うように。今度は、僕が打ちひしがれる番だった。自分のダメなところが突きつけられたような気がした。猫になって消えたかった僕は、野垂れ死にでもしたいという余市を責められないんじゃないか、と思ってしまったのだ。
「僕は、お前を助けたいと思って」
「……無理みたいだな」
僕の顔でそんなこと言うなよ、と思った。そんな、空っぽで真っ暗な笑顔をするな。
「お互い、青春の悩みには苦労するよな。最後にその顔見られて良かったよ。せいせいした。そうだな、俺はお前をめちゃめちゃにしてやりたかったのかもしれない」
彼は立ち上がる。そのままふらふらとどこかに行こうとしているのかもしれなかった。その時だ。
「本当に?」
澄んだ声が割り込んできた。余市は錆びたロボットのように、ぎぎ、と首を巡らせる。
「それならちょっと仲違いさせるよりも、もっとやりようがあるはずでしょ。その力で悪いことをしようとしたら、いくらでもできると思う。余市くん、頭いいし……ちょっといい性格してるし」
長瀬夜子だった。悪いこと。僕が少しだけ想像した、偽物になって家に居座るとか、そういうやつか。彼女は長めのスカートを風に揺らして、余市の前に立ちはだかる。
「違うでしょ。あのね。本当のことを言う。私、みかげちゃんに嫌われたかと思った時はすごく辛かった。でも、その後みんなと話し合ってた時は少し違ったの。もちろんずっと不安だったけど」
余市の姿が、すっと目の前の長瀬と同じに変わった。長瀬は、余市が自分のことを、自分の外見イメージを好きだったという事実を知らない。その綺麗な顔が、淡々とこう言った。
「同時に、ちょっと楽しいな、って思ってた」
僕ら三人は顔を見合わせる。細野はいつになく真面目な顔をしていた。伴はまだ怒りと心配を半々でくすぶらせているようだった。僕は混乱している。でも、なんとなくその気持ちはわかった。
「……みんなで一緒になんかしてる感じはあったよね。文化祭みたいに」
「頭動かすのに精一杯だったよ」
「今思うと、推理ゲームみたいではあったかも」
長瀬はこくりと頷く。
「余市くんは? 楽しかった? わざわざ先生に化けて様子見に来たり」
「バカなことやってんなと思っただけだよ」
「日直の件は? ヒントを出したんじゃないの?」
「あれは凡ミス」
「あの後姿を変えたのは」
「無我夢中だったんだって。気がついたらこんなんなってた」
余市は肩を竦める。あのカラーボックスには、繋がれていないゲーム機が押し込められていた。以前はリビングに置かれていたものだ。僕も遊んだ。余市は真面目だから、きっとああして封印をしていたのだろう。自分の心と同じように。
「私はね、あなたは私たちと遊びたかったんじゃないかって今、思ったの」
長瀬夜子は、黒くて神秘的な見た目よりずっと繊細で柔らかい、ただの女の子だ。でも、見た目通りとてもクールなことを考える子でもある。そして何より、友達と一緒にいることの楽しさを噛み締めては毎日生きている子だった。
勉強ができて真面目で、でもわりと話せる学級委員。みんなと仲が良くて、でもここしばらくは誰とも親しいわけではない。やりたいこと、好きな物に憧れていて、選んだり、悩んだりしたくて。それは誰にも話せない秘密であったはずで。
来いよ、追いかけっこしようぜ、と余市が誘うイメージが薄く陽炎のように浮かんで消えた。ああ、あいつ対戦したらいっつも、素早いキャラ使ってヒットアンドアウェイするからウザかったな、なんてことが思い出された。
頼む。もうちょっとだけ、手を伸ばしてくれ。
「私たちもだし、特に三田村くんかな。私が羨ましかった? 彼とよく一緒にいたから」
余市は答えない。
「音楽、好きなんだってね」
隠されたゲーム機の上の段には、CDアルバムがぎっしり詰まっていた。奴は邦楽ロックが好きで、僕も持っているやつがいくつもあった。あまり最新のものは揃っていなかったのが、少し寂しかった。
僕の周りで、配信じゃなく店でCDをよく買うような奴は、一部のアイドル好きを除けば余市卓くらいだったのだ。
「三田村くんは、たくさんいろんなアーティストを知ってるよね。私、びっくりした。アルバムも借してくれたし」
さっきもほら、ホフマンズ。私の好みよりアップテンポで歌詞が変だけど、わりと良かった。長瀬は僕をちらりと見てそう言った。僕は打ちひしがれるのを少しやめて、余市に話しかける。
「去年は、よくその辺の話したよな」
余市は沈黙している。余市が化けた長瀬は、余市が好きだと言ったイメージ上の長瀬のように、冷たく整った顔をしていた。本物の長瀬は、言葉こそスムーズだが顔は緊張していて、でもくるくると表情豊かだった。僕はそれを見ているとなんだか肩の辺りがそわそわした。お前鏡見てみろよ、と言って笑ってやりたかった。ここは外だから鏡がない。伴も鞄を持っていない。お前、好きなものあるじゃん、と教えてやりたかったのに。
余市は、僕になりたかった。長瀬にもなりたかった。伴や細野になりたかった。全員のことが好きで、同時に嫌いだったんだろうな。
「……俺はまだ怒ってるけど、でも何考えてたのかはわかった」
手を寒そうにポケットに突っ込んだ伴が、ゆっくり噛みしめるように言った。
「もういいよ。別にお前らに許されなくても平気だよ」
余市はあくまで意固地だ。さっきのはきっとかなり痛いところを突かれたはずなのに、言葉を絞り出して反抗する。長瀬は少しだけ悲しそうな顔をするが、それ以上何も言わなかった。言えなかったのだろう。それは僕だってそうだ。余市はまだ長瀬の姿のままだ。
「なあ、元に……」
「言ったろ、もう戻り方がわかんねえよ。いいから、ちょっかいは出さないからほっといてくれ。スッキリしたろ? 俺のことわかったような気分になってさ」
自棄になったような声で余市は言う。またその姿は誰でもあり、誰でもない形に移り変わる。底のわからない、真っ暗な空洞を覗いたような気分になった。
これじゃ駄目だ。結局、何もできなかったことになってしまう。余市が消えてしまう。つられて僕ら四人の仲までどうにかなってしまいそうだ。そんなのは嫌だ。嫌だ。
何をやってるんだろう、と思った。この間と結局同じだ。よってたかって心を暴いて、これがお前だよって突きつけて、それでこいつが自分を取り戻す気になるのか。違うだろ。
ここには鏡がない。だから、僕らが代わりに鏡になってやりたいのに。こいつの本当の顔を映し出してやりたいのに。
「ねえ」
その時、細野みかげの声がした。彼女はカーディガンの袖を伸ばして、手をぎゅっと中に丸め込んでいた。白い息がほわりと吐き出された。
「あたしも……あたしも言いたいことができたんだけど!」
最初はおずおずとした響きが、思い切ったようにいつもの溌剌とした喋り方になる。余市はうんざりした顔で振り返った。
「お前が何? また説得とか説教とかすんの?」
「そういうやつじゃなくて。あのさ、戻るとか戻らないとか、そういうのはちょっと置いといてよ」
置いとくのかよ、と僕は正直耳を疑った。前提がものすごく雑に覆された気分だった。そのために話をしてるんじゃないのか。
「用事があるの。あたしに数学、教えてくれない?」
僕らは、もう一度目を剥いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます