第3話 名前を呼ぶのは今らしい

 合コンってほどじゃないけど、宮ちゃんのお兄さんとその友達と、男女同じ人数で遊びに行ったの、と石は語り出した。僕はそっと宮川きららの名前に緑の線を引いた。


 遊園地で遊んで、食事をして、それから夜にカラオケに行って。向こうがお金出してくれたし、みんな優しかったし。宮ちゃんのお兄さんはちゃんと女の子が危ない目に遭うような事態は避けてくれたし、安心して遊べた。その後特に誰からも連絡はなかったけど。


 だから、それ自体は楽しかった思い出だ。友達と、ちょっとあの人良かったよね、とか話して、一番の人が全員被って笑ったり、その人からはやっぱり誰も連絡が来てないってわかって少しほっとしたりした。彼女いないって言ってたけど嘘だよね、というのが一致した見解だった。


 彼女は帰りの道がひとり駅の方なので、途中で別れた。ところが、その先の道で思いもよらない人間に出会った。


 さっきの『一番』の大学生だった。そいつは彼女に気づくと声をかけてきた。


「あれ、もしかして、こないだの遊園地の時の……。そっか、学校こっちだっけ」


 フットサルをやっていると聞いた。肩幅が広くて、見た目少しワイルドっぽいけど、笑うと優しそうな目になる人だった、のだそうだ。彼女の口調からすると、きっと言葉よりもずっと憧れていたのだろう。


「えーと、ちょっと待ってな。名前……ああ、そうだ。石田さん」


 全然違う。


 グループに石田なんて子はいない。クラスにはいるけど、多分関係ない。石も田も、掠りもしてない。


 あっ、この人、特に興味ないんだ。あたしに。あたしたちに。そう思ったという。


 それでも別に、違いますよー、と軽く言ってそれで終わりのはずの話だった。もしかしたら、改めて名前を覚えてもらえるチャンスだったかもしれない。だが、彼女は少し引きつった顔でえへへ、と笑ってしまったし、相手も特に会話を続ける気はなかったらしい。また遊ぼうね、とか言ってすぐにいなくなってしまった。


 モテそうな奴は違うよね、とか、やっぱりあれは彼女いるな、とか、色々考えたのだそうだが、スマホを取り出して何か友達に送ろうにも、手が震えた。ロック画面では、みんな同じ髪型の五人が笑っていた。


 あたしは、ただの道端の石ころと同じ。区別なんかつかない。


 ごとん、と何かが落ちて転がった音がしたそうだ。自分の心が立てた音だと、彼女は気づけなかった。




 僕は何か慰めの言葉を口にしようとした。でも、できない。代わりに、白紙の進路調査用紙のことを思い出した。僕を猫に変えてしまったあの時の気持ちが、胃のあたりからせり上がるように思い出された。伴も似たような顔をしていた。


 きっかけはきっと全部、本当にちょっとしたことなのだ。でも、僕らの形、僕らの世界は簡単に脅かされる。宇宙人とか、テロリストとかにではない。僕ら自身の気持ちによってだ。


「えっと、そしたらさ。服とか髪型とか変えてみたら。好きな風にさ」


 伴の言葉に、石は即座に反論した。僕のイメージの中の女の子は、下を向いたままぶんぶんと首を横に振っていた。


「今のが好きなやつなの。好きでやったら同じになるの。伴くんにはわかんないよ。みんな個性とか自分らしさとか言うじゃん。大事だよね。でも、やりたいように自分らしくやったら他と被る人はどうすればいいわけ?」


 だったら石でいいよ。考えなくていいの、楽じゃん。


「そんなの気にすることないよ。だって、友達がいるんでしょ。好きにやってて仲良しの子がいるんだったら……」


 長瀬はそう言う。石はやっぱり泣きそうな声を上げた。


「みんなといたら、またずっとこんな気持ちのまんまだよ。すぐ思い出しちゃう。ああ、名前もない石ころが五つ転がってるなあって。あたし、友達のことそんな風に思いたくないのに」


 僕は彼女たちのことを、心のどこかで馬鹿にしていたのではないかと思う。みんなと合わせて、似たような格好、お揃いの好み、大して差のないキャラクター。もちろん、全員が全員、彼女のように考えているとは限らない。僕の印象通り、付和雷同が好きな子もいるのかもしれない。それだって違いだ。


 ひとりひとりはちゃんと生きていて、こうやってそれぞれの理由で笑ったり泣いたり、苦しんだりしている。僕は、それをずっと見過ごしていた。


「……進路調査用紙さ。九月に書いたじゃん。あれ、どうだった」


 伴が不思議そうな顔で僕を見た。長瀬は心配そうだった。大丈夫。今ここで猫になるわけじゃない。


「何の話?」

「僕の変身の話」


 何書けばいいかわかんないから、適当に専門学校の名前並べたら、戸張先生に注意された。彼女はそう言う。


「僕は白紙で出して怒られた。そしたらその夜、猫になった。なんかもうめんどくさくて、ずっと猫でいいと思った。今度はたまたま会った長瀬さんに探された。だから戻ってきたんだ」


 僕と長瀬さんは、それまで全然話したことがなかったんだけどさ、と付け加える。


「僕が今度は、長瀬さんの役をやりたい。僕らお互いほとんど知らないけど、これから仲良くなれるだろ」


 二回会ったきりのフットサル大学生より、毎日会ってる僕を信じろ、とそう思った。別にキモいとか思われてたっていいんだ。僕はどうも、この石の女の子を嫌いになれそうにないから。


 だって、三田村はそうやって強いけど、あたし無理。ただの石ころだもん。細い声で石が、抵抗するように悲鳴を上げた。その時だった。


 事務所の入り口のガラスドアが開く音がした。ダークカラーのスーツ姿の長瀬の叔父、くれさんが、ぎょろりとした目を怪訝そうにこちらに向けて中へ入ってきた。今日は髭は剃っている。


「お前ら、またここを休憩所代わりに使ってんじゃねえよ」

「ごめん、末明すえあきさん。あ、電話が一件とFAXが来てて、あと今……」


 なんだこれ。石か。長瀬の報告を聞きながら、呉さんは気だるそうに僕らの方へとやって来る。テーブルの上の石は何も言わない。妙なことやってんな、という顔で呉さんはしげしげと石を見た。


御影石みかげいし? なんでこんなもんが」

「名前、あるの?」


 おう。粒々があるだろ。御影石とか花崗岩とかグラナイトとか、そういう奴だよ、と呉さんは言う。


「建材とかに使うやつだな。硬くて丈夫だ」

「あたし」


 石が呻いた。呉さんはギョッとした顔になって一歩下がり、観葉植物にぶつかりかけて横に避けた。


「あたし、名前、あたしの名前……なんで」


 僕らは、ぱっと名簿を見た。色で塗られていない名前。その中にひとつだけ、道筋があった。石には、綺麗な名前がついていた。


「細野みかげ!」


 僕らは声を揃えてその名を呼んだ。呪いが解けたように突然、テーブルの横にひとりの女の子の姿が現れた。黒髪のセミロング。大きめのカーディガンを着て、学校指定のハイソックス。ふら、と倒れかけたその姿勢を、慌てたように呉さんが支えた。


「またこの手の奴かよ」

「すいません、ほっとけなくて……」


 大丈夫か、と駆け寄ると、その女子は——細野みかげは顔を上げる。すっと切れ長の目をした子だった。


「ごめん。平気。大丈夫。……全部思い出した」


 あたし、名前あった。ただの石ころにも、ちゃんと名前ついてた。嗚咽しかけるところを、長瀬が背中をさすった。僕は簡単に呉さんに事情を話した。伴はのん気な感想を言う。


「カコーガン?って、確かに聞いたことあるなあ」

「地学でやんなかったのか、高校生」


 呉さんがじろりと僕らを見る。


「地学は三年っす」

「そもそも僕ら文系なんで、取らないですね」


 仕方ねえな、覚えとけよ。呉さんは言う。


「基本的に人間ってな分類が好きで、何にでも名前をつけてんだよ。名前がない石ってのは、逆に超レアだ」


 聞いているのかいないのか、細野はすん、と鼻を鳴らす。伴はスマホで何か調べて感心した顔になると、画面を彼女に向けた。


「すごいな。御影石って、同じ模様のものはふたつとないんだってさ」


 細野はちゃんと立ち上がると、目を瞬かせて画面を見やる。長瀬が頷いた。細野のポケットから、振動の音がした。


「……やば。みんなから連絡きてた」

「返してやれよ」

「三田村に言われなくたって返す」


 細野みかげはスマホをいじる。画面には似たような髪型、似たような格好の五人が笑っている。


 それでも僕らはもう、この写真の中から細野を見逃すことはないだろう。

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