夜猫ジュブナイル
佐々木匙
夜猫ジュブナイル
第1話 僕は黒猫であるらしい
愛想が悪いというほどではないが、大抵窓の外をじっと見るか、布のカバーがかかった文庫本を読むかしているので声がかけづらい。長い真っ直ぐな黒髪と、吊り気味の大きな目も近寄りがたさに拍車をかけていたかもしれない。黒いセーラー服に黒いカーディガンを羽織れば、彼女はまるで名前通り夜の化身だ。こんな気持ちの悪い言い回しで彼女を形容していることを、本人や他のクラスメイトに知られたくはないが。
ともかく、彼女はどこか一般の生徒と切り離されて教室に存在しているような風情があった。例えば、僕のような少し暗記が得意という程度の人間とは別世界の人なのだと。親が魔法使いだとかという噂も聞いたことがある。実際はきっと別にそんなことはなくて、夜には会社帰りの親にお帰りなさいとか挨拶をしているのだろうけど、ただ僕たちはいつも何か神秘や不思議が欲しかったのだ。そのターゲットとして彼女は都合よく使われていると、そういうわけだった。
秋口のある夜のことだった。僕は配信サイトで適当に音楽を探しながら、英作文の宿題とにらみ合っていた。
三田村は何かやりたいことはないのか、とその日の担任の戸張先生の言葉が頭の中にこだましていた。あまり嬉しくはない。こだまするならもっと格好いいギターリフとかがいい。でも、いくら探してもあまり好みの曲は見つからず、先生の声をかき消してはくれなかった。
背はあまり高くないし、体格も良くはない。顔だってたかが知れている。成績は普通。部活には入っていない。友達はまあ何人か。音楽を聴くのは好きだけど、自分で作曲とか演奏するのは何か違う感じがする。これが僕、
来週までに進路をもう少し考えてきなさい。白紙は良くないぞ。先生の言葉が響く。
ああ、なんかもう、やってられないなあ。
僕は伸びをした。耳からイヤホンを引っこ抜く。掠れたシャウトが途切れて、居間から小さくテレビの音が聞こえるようになった。スマホをいじって友達と話しても良かったし、真面目に宿題をしても良かった。居間に出て親に相談するのも手だったろう。そのまま自分について深く考えるのも、インターネットで何か広い世界を知るのも、映画なんかを観るのも、積んであった漫画を楽しむのも全部何かの糧にはなったはずで、でも僕はそれをやらなかった。
代わりに僕はそっと廊下に忍び出た。そうしてこそこそと足音を立てずに歩いてドアを開けると、ひんやりした空気の流れる外へと飛び出したのだ。
夜に溶けるようにして、ゆっくり散歩がしたかった。それだけだった。
徘徊癖がついたのはここ最近で、親には時々注意を受けていた。といって、別に夜遊びをするとかではない。せいぜいコンビニで雑誌を立ち読みしたり、近くの川沿いをぶらぶら歩いたり、その程度だ。幸い補導されたことはない。特に誰にも話しかけられもしないし、静かに何も考えずに歩くのが僕は好きだった。こんな時には、音楽もいらない。
高い空には名前もよく知らない星が浮かぶ。太陽と月とオリオン座以外の知識はほとんどない。名前を知らないと、親しみも湧かないものだ。僕にとって夜空の星は、ただの光の点でしかなかった。
橋の上を走る自転車の光を避け、渡り終えると川の方へと向かう。暗い流れはよく見えない。近寄れば落ちそうで、土手の上を歩いた。今年の台風は大きくて、ここのすぐ下まで増水をしていた。昔はよく人が流されたと聞く。
流されてばかりじゃいけないぞ、と頭の中の先生がうるさい。僕だって、川の流れに逆らってざぶざぶ泳げるならそりゃそうする。出来ないから怖いんじゃないか。出来ないから、辛いんじゃないか。
放っておいてくれ、と頭を振ったその瞬間だった。目の前に、真っ黒い夜がいた。
気のせいだ。街灯が少ない通りだから、人がいるのに気づかなかった。しかも、全身黒い服の女の子だ。顔だけが白い。幽霊みたいな空気を出して、でもそこには確かに生きている人間が立っていた。じっと川の方を見ていた目が、こちらを向いた。
長瀬夜子がそこにいた。
真っ黒な姿だが、手には白いコンビニの袋を提げている。そこだけ変に生活感があって、少し面白かった。別にそのまま通り過ぎても良かったのだが、僕はなんとなく意地悪な気分になっていた。彼女に嫌なことをしようというつもりはない。ただ、神秘ということになっているクラスメイトの化けの皮を薄く剥がしたくなっていたのだ。
「こんばんは、長瀬さん」
彼女は目を瞬いたようだった。そうして口を開いて出てきた言葉は、なかなかに衝撃的なものだった。
「あなた、喋れるの?」
いくらやる気のない僕でも、ここまでのことを言われたことはない。口数が多いわけではないが、毎日友人とは喋るし、国語の時間に当てられれば音読だってする。そもそも長瀬夜子当人にだって一度、教室でイヤホンをつけていたら何を聴いているのか尋ねられたことがある。サードマグニチュード、とそう有名でもないバンドの名前を答えたら、そう、と興味なさげに席に戻ってしまったが。半年間で彼女と何か会話したのは、それくらいだろうか。
「それはないんじゃないのかな……。普通に話くらいするよ。長瀬さんと話したことはそんなにないけど」
彼女はさらに怪訝そうな顔になった。
「どうして私の名前、知ってるの?」
ああ、と僕は失敗に気づいた。夜の闇の中とはいえ、彼女は僕の顔をこれっぽっちも覚えていないのだ!
これはさすがにショックは大きかったが、今さら引き下がれば変質者だ。僕は苦虫を噛み殺しながら続けた。
「ごめん、覚えられてなかったのは予想外だった」
「覚えるも何も」
第三弾の攻撃は、何よりも威力があった。それまでが火縄銃なら、マシンガンの弾を叩き込まれたようなものだった。
「私、猫に知り合いなんていない」
はあ?と感じの悪い返事を返しそうになった。何を言っているのかさっぱりわからなかった。僕は彼女の顔を見上げ——見上げ? 長瀬夜子は背は低くない方だけど、さすがに僕の方が十センチばかりは上だったはずだ。
「猫、って何。僕は二組の三田村だけど……」
「三田村くんは知ってるけど、なんで猫なの?」
ああ、覚えられてはいたようだ。でも、状況はめちゃくちゃだ。僕は下を見る。スニーカーの足はなくて、代わりに黒く小さい前脚がある。振り向くと後脚もあるし、なんなら長い尻尾すらあった。頭の上にある耳は動かすことができたし、風に揺れるひげからは目や耳や鼻と同じくらいいろんなことがわかる。
「なんで猫なんだろう……」
「自分でもわからないんだ」
長瀬夜子はしゃがみ込む。そして真っ直ぐにこちらを見つめてきた。自分の身に意味のわからない出来事が起こっていること以外は、なかなかに嬉しい状況のはずなのに!
彼女は手を僕に寄せようとし、少し考えてやめたようだった。
「そしたら、ついてくる? 話を聞いてくれそうな人、知ってるんだけど」
僕は尻尾を軽く揺らした。何もかもわからない。このまま家に帰って無事元に戻れるのかもわからない。ドアを開けられる気もしない。だから、行く、と答えた。幸い、猫みたいににゃあと鳴いたりはしなかった。
「聞いてくれそうな人って?」
「うん」
長瀬夜子は歩き出す。僕の歩幅に合わせてか、少しゆっくり目の歩調になっているようだった。
「私の叔父さん。探偵なの」
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