第2話 話を聞いてもらえるらしい
『
「ただいま」
ガラスドアを開け、明かりのついた部屋に彼女は滑り込んでそう言った。つまり、ここが彼女の家なのだろうか。ソファセットがあって、雑然とした机があって、奥の方には別の部屋があるようだ。事務所だし、名字も違うし、叔父さんと言っていたし。どうも謎が多い。噂よりも神秘であるかもしれない。そしてどこからか、おお、と平坦な感じの男性の声がした。
「夜子お前、裏から家の方に入れって言ってるだろ」
「お客さんがいるから連れてきたの」
お客?と声に疑問符がついて、そうして傍にあったソファの上からむくりと人影が起き上がった。そこにいたのか、と僕はうっかり猫のように飛び退ってしまった。猫だけど。
「透明人間でも連れてきたか」
「今回は違うってば。ここ。私のクラスの子なんだけど」
長瀬は下を指差したのだろう。その人——寝癖のついた頭、少し無精髭の伸びた顎、眠そうな目、ややがっしりした肩の持ち主は目線を下ろした。僕は見上げる。今の僕の大きさを差し引いても、結構背の高い男の人だ。漫画とかなら人気が出そうなアウトローっぽさがあるが、現実では人相が悪くてあまりモテなさそうなタイプだった。
「最近の高校は猫も一緒に教えてんのか?」
「わかってるくせにそういうこと言うのやめようよ。普段は普通に人間のはずなのに、なんだか知らないけど猫になっちゃったみたい。ね、三田村くん」
「はい、そうみたいです」
僕は慎重に答える。喋ったことにはそれほど驚いていない様子で、なんだ、猫が授業受けてたら可愛いのにな、と男の人はぼそぼそ言った。案外いい人なのかもしれない。
「
「慣れるって……よくあるのか? こういうの。僕は初めてだけど……」
よくはないけど、たまにね、というのが答えだった。
「夜子はどうも妙なものを見つけやすいんだな。で、俺に押し付けたがる」
呉さんはあくびをしてからソファに座り直して、長瀬と僕に向かいの席を示す。
「ま、座んな。解決できるとは言わんが、話は聞いてやるよ」
僕は合皮張りのソファに爪を立てないよう気をつけて登ってから、ふと長瀬に聞いてみた。
「透明人間ってのも、もしかして会ったこと……」
「あるよ。転校してきてすぐの頃にね」
どうも、彼女はクラスの噂よりもだいぶ上を行っているようだった。
話といっても、僕にわかることはほとんどなかった。夜に外に出て、気がついたらいつの間にか猫に変わっていたらしい、と。鏡を見せてもらったが、見事に真っ黒な猫で、尻尾の先だけが少ししょぼしょぼと白い。目は淡い緑色で、そこだけがぱっちりとよく目立っていた。僕が元通り人間で、道端でこんな猫を見かけたらちょっと足を止めて動きを見ていたりしたかもしれない。でも、あいにくこれは僕自身の姿で、右に動けば鏡像も一緒に移動し、尻尾を揺らせば鏡像の尾も蛇のようにくねった。
「ここしばらくで何か変わったことは?」
「別に……夜に散歩をするようになったってことくらいです」
関係はありそうだな、片鱗が見えてたってことか、と呉さんは呟いて、机の上にあったガムを口に放り込んだ。
「
「禁煙してから口が寂しいんだよ。ほっとけ」
長瀬は叔父さんを名前で呼ぶようだった。ずいぶん学校とは違うな、と思う。まるで当たり前の女子みたいな顔で元気に話すが、この子は透明人間と会ったことがあるというのだ。わからない。
「今日はどうだ。何かあったりは?」
「何かって言われても……」
「何か、ちょっとびっくりしたり、しんどかったり、辛かったりするようなこと」
詩でも朗読するような調子で、長瀬が引き継いだ。
「心が痛いようなこと」
そういうことがあると、不思議なことが起きがちなの、と言う。心当たりはひとつしかなかった。
「……先生に説教された」
「三田村くん、そういうキャラだっけ?」
「進路調査の紙、白紙で出したんだよ」
ああ、と長瀬はうなずいた。
「あんなの適当に書けばいいのに……」
「おい、進路調査ってなんだよ。俺は聞いてないぞ」
だって勝手にハンコ押して勝手に出したもん、と涼しい顔だ。呉さんはお前保護者をなんだと思ってる、とか睨みつけている。やっぱり悪い人ではなさそうだった。
「ちょっとくさくさしてたのは本当だけど、それで人が猫になったりするもの?」
「私だって原理は知らないけど、そういうことは時々あるよ。透明人間の子は、人前で失敗して消えちゃいたい、って思ったせいで本当に見えなくなっちゃったんだって」
「思ったんだけど、なんで長瀬さんは透明人間がわかったの」
「服も全部一緒に消えてたけど、ランドセルについてた防犯ブザーだけ浮いてたの。小学生だったんだけどね。たまたま私が見つけられて良かった。あのままだと全部消えちゃうところだった」
要するに、精神ってのはたまにオーバーフローを起こすんだよ、とガムを捨てながら呉さんが引き取る。
「病は気から、の親戚っていうのか。身体の方をめちゃくちゃに作り変えちまうことってのがある。本当に変わってるのか、見た目そうなってるだけなのかは知らんが。夜子はそういうのに敏感でね。俺はよく付き合わされる。カウンセラーじゃなくて探偵なんだがなあ」
僕は少し下を向いて言葉を探した。
「どうやったら戻れるんですか」
「戻りたい気持ちがありゃそう悪くはないな。ほっといても大丈夫かもしれんが、まあ、大体は話をして気持ちに整理がつけば、って感じか」
それから呉さんは、三千円、と言った。
「未成年だし夜子の友達料金だ。破格だぞ」
「あ、お金かかるんですね」
「地味に痛めのところを突いてくるの、嫌だよね」
長瀬さんは仕方なさそうに笑う。三千円あればアルバム音源が買えるが、それにしても戻れるのであれば——戻れるのであれば?
「私、ちょっとお腹空いたからカップ麺食べる。三田村くんは話してて。早く戻れるといいね」
さらりと黒髪を揺らして、長瀬夜子は奥へ引っ込んでしまった。勝手知ったる、といった様子だ。カップ麺というのもなかなか彼女の外見には合わない食べ物だと思う。今夜は、僕は長瀬に驚かされ通しだった。
「なあ、あいつクラスでちゃんとやってんのかな」
呉さんが声を顰める。
「面談の時、なんか浮いてるって聞いたんだが」
「長瀬さんは……えっと、別に嫌われてるとかじゃないんですけど、ちょっとみんなと距離があるというか」
「やっぱりだ。あいつすぐ誤魔化すから困るよ」
腕を組む。アウトロー風だけど、精一杯保護者をやっているようではあった。長瀬さんとも関係は悪くなさそうだ。彼女の両親はどうしているのかとか、そういうのが少し気にかかるところではあったが。
「三田村くんは」
「僕ですか?」
「クラスでどんな感じとか、そういう奴」
普通ですよ、と答えると、普通ってこたないだろうが、と怒られた。
「普通ってのは、並べて均して初めて出てくるもんだろ。ひとりひとりはバラバラなんだよ」
「まあでも、可もなく不可もなく。別にいじめとかもないし、悩みとかも……」
「進路調査用紙は」
真っ白な紙を思い出して、僕は耳を伏せた。
「あれまではなかったんです、悩み」
ふむ、と呉さんはペンを取って何かメモを取り出した。
「ただなんていうか、配られて、何か書こうとした途端にわかっちゃって……」
僕には、志望するほどの進路なんかない。希望を持って進めるような未来なんてない。それをずっと見ないふりして、ずっと適当にやってきてしまったのだということが。
何も考えずに普通でい続けたことの罰か、と思ってしまった。
「人に相談するのも、なんかできなくて」
「今してるな」
「してますね。でも……」
もう、遅いのではないか。そんな思いがちらりと頭を掠めた。
僕は、猫から戻れなくてもいいのではないかと、そんなことを考え始めてしまっていたのだ。
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