第3話 僕は飛び出したかったらしい
少しの間話していると軽く水道の音がして、カップ麺を食べ終わったらしい長瀬夜子が戻ってきた。緑色のネギが口の端についていたので指摘すると、夜の化身のような女の子はやだ、と言って手の甲で唇を擦った。
何が夜の化身だよなあ、と思った。ただの女の子じゃん、というわけだ。
「で、どう? 戻れそう?」
「寝て起きたら解決した、なんてこともあったしな。様子を見て……」
ふたりは少しだけはっとした顔になった。僕が突然、入り口の方を見たからだ。ガラスドアの向こうは、黒々とした闇と、夜でも華やかな電気の光。
「なんか音がした気がして。人が来たのかも?」
「聞こえなかったけどなあ……。ああ、でも猫だから私より耳がいいんだ」
長瀬は立ち上がって様子を見に行く。僕は床に降りて、その後ろをついていった。彼女はドアの向こうの黒い闇を探るように見る。
「気のせいじゃない? ほら」
細い手がドアノブにかけられ、ドアが外に開く。涼しい風が入り込む。
僕は、この時を待っていた。
「おい夜子、ドア閉めろ」
呉さんの声が飛んだ瞬間、するりとドアを抜け出した。ひげが教えてくれるので、狭い隙間だって何も問題がなかった。僕は、闇の中に駆け出した。
「ちょ、ちょっと三田村くん!」
声が追いかけてきた。僕は返事をする。にゃあ、と猫のように。猫だからね。
二階から一階に、階段を駆け抜ける。普段より段差は大きいから、身体ごとで走る。長瀬は追いかけてきたようだったが、ビルの下に降りきったところで建物の間の狭い道に潜り込んだので、彼女は僕を見失ったようだった。三田村くん、と声が力なく響いた。
駅前の表通りはまだ人の行き来があって、明かりも賑やかだ。少し行くとパチンコ屋の裏に出て、ここは音が少しやかましい。抜け出して、焼き鳥の匂いが香ばしい居酒屋のところに移動した。
顔を上げる。人には通れない裏側の道は、秘密の通路だ。僕ら猫を守ってくれる。空には名前も知らない小さな星がぽつりとひとつ浮かんでいた。特に愛着はない。ただ、どうしようもなく吹き荒れる解放感とスパイスとしての孤独に、僕は尻尾までびりびりと震えていた。戻らなくていいや、とそう思っていたのだ。
どうせ未来に希望なんて持てないのなら、その日暮らしの猫がいい。呉さんに自分の話を語るたびに、僕はそう思うようになっていた。周りの人は僕を探すかもしれないが、そのうち空白にも慣れるだろう。他人に消えない痛みを刻み込めるほどの生き方を、僕はしてこなかった。こうなってみると、それで良かったのかもしれない。
ぐちゃぐちゃになった何かのチラシを踏みつけて僕は跳ぶ。エアコンの室外機の上に着地して一休み。もう、白紙の進路調査用紙なんて気にしなくていい。
僕は、夜に溶けたかったのだ。
目を閉じる。緑色の目が見えなくなれば、もうほとんど闇と同じだ。人からは区別もつくまい。ここらを縄張りにしている他の猫もいるかもしれないが、しばらく勘弁してもらおう。
その時、僕の耳が勝手にぴくりと動いた。車の音とか、人の足音に混ざって誰かの声がする。
三田村くん、と声は僕を呼んでいた。
「三田村くん、どこ行っちゃったの。返事して」
長瀬夜子が、僕を呼んでいる。僕は用心深く顔を伏せた。見つかったら台無しだ。長瀬はスマホで、多分呉さん相手に電話をかけたようだった。全然いない、どうしよう、と。その様子はやっぱり、不安げなただの女の子だった。
勝手に期待していたのは、僕だ。ちょっと綺麗な見た目だからって、謎とかそういうものを積み上げて、本物を見えなくして、不思議なシチュエーションに少し舞い上がって。長瀬夜子はコンビニに行くし、進路調査用紙は適当に書くし、カップ麺を食べてネギを手で拭うのだ。
勝手に期待していただけなのに、とても利己的なことに僕は少し腹を立てていた。どうしてちゃんとみんなの理想を演じてくれないんだ、みたいなとても酷いことを考えた。最初に薄皮を剥がそうと話しかけたのは僕の方だったというのに、だ。
まあ、いい。もう彼女ともお別れだ。僕は夜の世界へ行く。ただの女の子にはついてこられない、暗くて静かな世界へ——。
音楽が、流れ出した。
耳が勝手にびくぴく動くので、困ってしまった。それはおそらく長瀬夜子のスマホから流れてきていて、少し乾いた音色のロックだった。それほどメジャーでもないバンドが二年くらい前に出したアルバムの三曲目。僕は知っている。お気に入りのプレイリストにも入れている。
サードマグニチュード。僕が長瀬夜子に一度だけ教えたバンドの音楽が、表通りから路地に小さく流れている。家電量販店の客寄せの音に紛れて、消えそうになりながら。
ああ、この耳だとイヤホンが使えないな、と思った。そもそもスマホもない。もう選んで音楽は聴けない。まあそれでもいいかとも思った。思ったが、振り切れなかった。僕は、長瀬夜子が発した精一杯のメッセージに惹かれてしまった。
遠ざかっていく音楽を追いかける。二番のサビの後の美味しい間奏だ。この後一瞬入るブレイクがいいのだ。だから、そこに合わせてにゃあ、と鳴いてやった。長瀬は泣きそうな顔になって僕を見た。
「いたあ……」
僕は半ば顔を隠してしまった長瀬の手を引き、少しずつ人が少なくなりつつある表通りを歩いた。いつの間にか彼女の黒い頭は僕の少し下にあって、すん、と軽く鼻を鳴らしていた。
「……いなくなっちゃったら、どうしようかと思った」
「長瀬さんにそんなに心配されてるとは思ってなかった」
「するよ。もうだいぶ話したじゃない。思い入れないのは無理だよ」
その声にはもう神秘の欠片もない。そこにいたのはただのなんでもない、優しくて感受性が豊かな、ひとりのちっぽけな女の子だった。
「さっきの曲……」
「三田村くんは覚えてないかもしれないけど、前に教えてもらった。私は覚えてる。アルバム全部聴いた。わりと好き」
僕は言葉に詰まった。僕らがこの子を遠巻きにしている間、彼女は彼女なりの孤独を噛み締めていたのだろう。こんな小さな記憶をしっかりと抱えているほどなのだから。長瀬のメッセージは、僕が考えるよりもずっと切実なものであったかもしれない。
「そしたら、スクープオブラブとかも好きかも」
「聴いてみる。三田村くん、詳しいんだ」
「そんなでもないけど……ああ、そうだ」
ビルの自動ドアに映る僕の姿は、もう完全にいつもの人間で、ずっと長瀬の手を取っていたのに気づく。ちょっと恥ずかしくなって離してしまった。
「明日、なんか見つくろっていろいろ教えるよ。教室で」
うん、明日。と長瀬夜子は笑った。夜の化身と思っていた。でも、なんだか違っていたようだ。髪も服も黒くて闇に溶けるようだった彼女の白い顔は、ふわりと浮かび上がるようによく目立つ。その中の大きな目はとりわけ僕の目を惹きつけた。
事務所の方に戻ると、捕獲器なのか大きな籠のようなものを持ち出していた呉さんが、何やってるんだお前らは、と叱ってきた。僕は謝って、少し考えると三千円を取り出す。財布は上着のポケットに突っ込んであった。
「要らねえよ。俺は今回何もしてないぞ」
まあでも、と僕は手を引っ込めなかった。
「相談料です」
「解決したって顔はしてないけどな」
受け取りながら、呉さんは鋭いことを言った。そうだ。僕はちょっとばかり絆されて戻る気にはなったけれども、根本のところは特に何も変わってはいない。突然未来への期待が高まったりなんてこと、あるわけがない。
それでいいんだよ、と呉さんは続けた。
「お悩み相談で急に全部楽になったら、それはインチキだと思えよ。一度染みがついたら全部取るのは重労働だ。水で薄めてごまかすしかない」
水、と僕は長瀬の顔を見た。彼女はまだ少し心配そうに僕のことを見ていた。見ていてくれた。
「友達とか家族とか先生とか大人とか、そういう奴らだな。頼れ、ってことだ」
三千円をぺらぺらと扇のように開いて、呉さんは仏頂面のまま言う。友達と大人ならここにいる。僕はどうやら、ぽつりと落ちた黒い汚れを少しだけ薄くすることに成功したものらしい。
ありがとうございます、と頭を下げた。
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