第2話 誰かがどこかにいるらしい

 保健室は薄く薬の匂いがする静かな部屋だ。放課後、帰りの準備をした僕らが足を運ぶと、養護の先生はカーテンの閉まったベッドに向けて、起きられる? お友達が来たみたいだけど、と声をかけてくれた。


 結局長瀬は、ホームルームが終わるまで教室に戻らなかったのだ。僕は日直がペアの諸星を拝み倒し、掃除のチェックと日誌の仕事を両方代わりにやってもらった。廊下では戸張先生にニアミスして、三田村お前こらっ、ちゃんとやれ、なんて声を聞きながら来た。諸星には大変申し訳ないとは思っている。今度あんパンとか買ってこよう。


「すみません。今、ひとりがいいです」


 力のない長瀬の声がした。カーテンの向こうにはなんとなく人のシルエットが薄く見えたので、起き上がってはいるらしい。


「お家の方に迎えに来ていただく?」

「……連絡します。だから、みんなには帰ってもらって……」


「長瀬。ここには僕と伴と細野がいる」


 僕は思わず声を上げていた。先生はちょっと、と止めようとしたが、長瀬は僕の名前を呟いた。


「……三田村くん」


 カーテンが微かに揺れる。やっぱり妙だ。心細そうな声には、さっきの冷たい長瀬の影は少しもない。


「この中の誰かに、なんか言われたんじゃないのか。僕らも変なことがあって困ってる。大丈夫。誰も長瀬を嫌ったりしてない」


 そうだよ、と伴と細野も口々に言った。息を呑むような音がして、そしてカーテンがさっと開いた。


「ほ、ほ、本当に……? みかげちゃん、私のこと嫌じゃない?」


 中から覗いた長瀬の目は、びっくりするくらい赤くて、少し腫れていて、いつもの綺麗な顔からずいぶん遠ざかっていた。しぱしぱと動くまつ毛はまだ濡れている。でも、僕はこの顔もちゃんと彼女らしいと思う。長瀬は見た目よりもずっと優しくて傷つきやすい、ただの女の子だ。


「嫌じゃないよ! 長瀬ちゃん、なんにもあたしに悪いことしてないもん」


 良かった、良かった、と彼女はべそべそになりながら鼻をかむ。ベッドの枕元には、丸まったティッシュがたくさん転がっていた。


 ——だから、ただの女の子をこんな風にボロボロに泣かせた奴を、許すわけにはいかない。僕はそう思った。手をぎゅっと握り締めた。




 僕らはとりあえず保健室を出た。話し合いをしなければならない。長瀬はまだ目が赤いし、そんな彼女の背中をさすってやっている細野も、半分もらい泣きしかけている。伴はいつになく機嫌の悪い表情だったが、僕の顔を見て眉間の皺を解いた。


「三田村、すげえ怒り肩」


 初めて、全身にひどく力を入れていたことに気づいた。握った手のひらには爪が跡をつけていた。猫の爪でなくて良かった。開いて閉じて、呼吸を整える。


「教室に戻るのがいいかなあ」

「でも、もし誰かのせいなら、その『誰か』がまだいるかもしれない」


 沈黙が降りる。先ほどの二組のホームルームでは、僕ら以外に何か目立ったトラブルがありそうな奴はいなかった。僕ら四人がピンポイントに仲を引っ掻き回されたのだ。だとすると、もし人為的なやつだとしたら、細野を特定した時と同じだ。僕ら四人の仲がいいことをある程度よく知っているのは、学内では同じクラスの連中ともう少しくらい。学外なら家族や呉さん、ギリギリでたまに行くファミレスの店員や通学路でちょっと会ったことがある人、なんかが考えられるが、もしそいつが変身できる奴だとして、学校まで来てこんな真似をするなんてことは少し考えづらかった。


 そう、僕は半ば確信していた。今回の『誰か』は僕らと同じく何かに——誰かに変身することができる。しかも、あまり信じたくはないが、僕ら四人に化けていたのだからまとめて四人もいる計算になる。


 第一理科室とかどうかな、今日は部活ないし、という伴の提案で、電気の消えていた部屋に入り込む。後ろに飾られた骨格模型を気にしながら、僕らは話し始めた。


 初めは四人ともが一気にいろいろ話そうとしすぎて、会話の玉突き事故みたいなことが起こった。だから、とりあえず落ち着いて状況整理、と僕らは自分に起こったことを順番に語ることにした。


 僕と長瀬夜子は昼休みの終わり頃に、それぞれ長瀬と細野から『話しかけるな』と言われた。長瀬はそのショックで調子を崩し、保健室に行った。伴と細野はその次の休み時間、僕と伴にやはり『話しかけるな』と告げられる。伴はしょげてその通りにしようとしたが、細野は逆に怒って怒鳴り込み、おかげで今回の妙な出来事が発覚した、というわけだ。


「みかげちゃんがお手柄だったんだ」

「えへへ。なんでこんなことしたんだろうね。だってすぐバレるじゃん?」

「どこかひとりでも、ちゃんと話そうとしたら崩れるやつだよな」


 僕はノートの後ろのページに『三田村→伴→細野→長瀬』と円を描く。


「この四人で完結してるし、やっぱり僕らだけが目当てってこと?」

「でもさ、おかしいよ」


 伴が眉をひそめる。


「俺ら四人にそんなになりたかったりとか、こだわってたりとかって奴、そんなにいるものかな……。あ、俺はその『誰か』は変身できるって思ってるんだけど」

「まあ、そうだよね……。んんん、すごい変装とか、あと他のなんか超能力的なことができる人がいたりとかしなければ」

「あんまり聞いたことはないかも」


 変身現象は、僕らが確かに知っている唯一の不思議だ。魔法とかSFみたいなことを考えればきりがないから、例えば知らない間に僕らが催眠を受けているとか、そういうのはちょっと置いておく。


 だとすれば、その『誰か』は僕らに何かしらの強い感情を持っているはずだ。『こうなりたい』とか、『本当はこうに違いない』とか。ひとりふたりならわからないでもないが、四人ともとなると頭をひねりたくなる。しかも、すごい偶然が起こったのでない限り、そいつらは連携を取っているはずなのだ。


「そんなに四人もあっさり知り合えるものかなあ?」

「言ったら俺ら四人だって、結構な偶然じゃない?」


 長瀬さんはちょっと違うけど、と伴は腕を組む。僕は少しドキリとした。長瀬は何か言いたげな顔になり、思い切ったように告げる。


「あのね。私もそう。半年以上前に少し変身したことがあるの。それからずっと変わってないから言ってなかったけど」


 ふたりはええー、と声を上げる。長瀬は目を伏せた。


「ごめんね、黙ってた。……嫌われたくなかったの。どんなかは、知られたくない」


 そんなに嫌な姿だったのだろうか、と思う。トカゲとかカエルなんかをまず思い浮かべる。あまり長瀬と繋がる感じはしないし、普通に小さすぎて生きづらそうなので違った方がいいと思うが、僕はそんなに爬虫類も両生類も嫌いではない。


「言って欲しかったとは思うし、気になるけどー。まあでもいいや。今は事件の方が重大じゃん」

「っていうか、そんなに大したことじゃないよね。長瀬さんが何になろうが長瀬さんでしょ」


 ふたりはそう軽く言う。僕も頷いた。そうだ。僕らはきっと、そういうものなんだと思う。長瀬は肩の荷が少し下りたような顔でありがとう、と微笑む。細野はすぐにまた疑問を差し挟んだ。


「……でもそしたら、やっぱり偶然がそんなにぽんぽこ起きるのはおかしくない? 四人が二組も揃ってるんだよ?」

「あと、変身すんのってわりと運じゃん。作戦とかってできるもの? 法則とか掴んでんのかな」


 伴の言葉に僕と長瀬は顔を見合わせた。細野もややあって、あっ、と声を上げる。


「なになに、俺だけ知らないやつ?」

「……自分から変身できるケースもある、らしい。つうか、僕も一度なった。『できるな』って思ったら、猫になれたんだ」

「そうそれ! 三田村の!」


 やっぱり俺ハブじゃん、と伴は肩を落とした。お前あの時やたら眠そうだったから黙ってたんだってば、とか言ったところ、初詣の時の体たらくを思い出したらしく首を横に振った。とりあえずは立ち直ったようだ。


「てことは。相手は四人。僕らにそれぞれ変身できる。しかも、それをコントロールできる」

「何その強敵感」

「目的は、私たちの仲を裂くこと? なんでかはよくわからないけど……」

「ヤキモチ?」

「僕らになるくらいだから、それぞれにこだわりがあって、うーん、独占したくなった」

「そこがさあ。そんなヤバい奴が四人もいるかってのが……」

「リーダーはひとりで、後は協力してるだけ……にしても」


 ノートはどんどん書き加えられて、ぐしゃぐしゃになっていく。これ以上のことはよくわからない。僕らは頭を抱えていた。その時だ。


「なんだ、お前らこんなところで」


 がらりとドアが開き、戸張先生が顔を覗かせた。日直の件で後ろ暗いところのある僕は心臓が跳ねるかと思いノートをさっと隠した。


「あ、すいません。ちょっと話があって」

「ここを使うなら、ちゃんと長谷川先生か田中先生に声をかけなさい」


 僕らは、はあい、と声を上げて机の上を片付けた。煮詰まっていたところでもあるし、また外で話すのもいいかもしれない。


「そうだ、細野。さっき教室で宮川が探してたぞ」

「あ、マジですか! 何も言わないで出てっちゃったからなあ」


 あたしちょっと一度抜けるわ、すぐ戻る、と細野はドアの方に行こうとした。戸張先生は、じゃあ、早く帰れよ、と背を向ける。僕は少し罪悪感が芽生えてきたので、その背中に声をかけた。


「先生、すいませんでした」

「ん?」


 一度外に出た戸張先生は、またひょいと顔を出す。


「日直、諸星に押し付けちゃって」

「お前そんなことしてたのか。しょうがないな」


 あれ、と思った。頭のどこかでぱちりと目が開いたような気がした。黒猫の緑の瞳が。


「今日はもう仕方ない。次はちゃんとやれよ」


 僕は先生の顔を見る。眼鏡をかけた四十前の、人の好さそうな男性教師。わりと頼れる英語の戸張先生だ。そのはずなのだ。


 じゃあさっきの声はなんだ。三田村お前こらっ、ちゃんとやれ、って先生は確かに。


「三田村?」


 先にドア近くにいた細野が、怪訝そうな顔で振り返った。


「おかしいよ、先生は僕のサボりのこと知ってるはずなのに、だってさっき確かに怒られて……」


 気をつけろ、と僕は三人にどうにか伝えようとした。細野がぴっと変な声を上げて一歩下がった。考えられるのはふたつ。僕を怒った先生か、今の目の前の先生か、どちらかが偽物だ。どちらにせよ、先生は今ふたりいる。


「先生、先生は——」


 僕が悩みながら口を開いた瞬間、『戸張先生』はくるりと振り向くと、理科室を飛び出した。きっとこっちが偽物だ。僕らも弾かれたように、先生を追いかけた。

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