第3話 誰かを追跡するらしい

 先生は人のいない廊下を走って、階段の方へとくるっと角を曲がる。僕ら四人も突っ走る。なんでもいい、手がかりが欲しかった。だが僕らも角を過ぎた途端、その姿はどこにも見えなくなる。代わりに、同じくらいの勢いで走っている奴の姿があった。同じクラスの男子、野球部で今時坊主頭の新井だ。クラスで一番か二番くらいに足が速く、体育祭では頼りにされている奴だった。


「えっ、何、どゆこと?」


 細野が息を切らしながら呟いたが、とにかく追え、と走った。新井は階段を駆け抜け、踊り場のところでまた僕らの視界から消える。何人かの驚く声がして、中に一際目立つ、やたらと高い声があった。何、森くんどうしたの、とその声は言っていた。吉野だ、と伴が呟いた。アニメの女の子っぽいかわいい声は僕らのクラスでも特徴的で、確か細野の事件の時には真っ先に除外した記憶がある。階段を降りたところでは、やはりショートヘアの吉野絵里奈が周りに落とした荷物を拾っていた。二階。二年の教室がある階だ。


「今、森って言った?」


 僕が立ち止まって肩で息をしながら聞くと、吉野はこくこくと頷く。もうどこにも逃げた奴の姿はない。階段の下から来た奴が、今誰かすごい走ってたな、なんて話してるから、あっちが『誰か』でこの吉野はきっと本物だろう。


「すごい勢いで行っちゃった。何? あれ」

「僕らもよくわからん」


 森もやっぱりうちのクラスの男子だ。普段は目立たないが、文化祭では演劇部で結構いい演技をしていた。結局どういうことなんだ、と僕らは顔を見合わせた。


「でも森くん、確かこの間足に怪我してたよね」

「そういや昨日の体育、見学してたな」

「もう治ったのかな。ならいいんだけど」


 荷物を拾い終わった吉野は、去り際にぽつりとそう言った。伴がはあ、と大きく息を吐き、階段脇から少し離れたところの壁に寄った。


「ちょっと整理。整理しよ」

「先生が新井くんになって、新井くんが森くんになった……?」

「ずるくない? なんで何回も変身できんの?」

「先生は偽物っぽかったよな。森も足がまだ治ってないはず。じゃあ新井が本体っつうか正体なのかな」

「いや」


 伴は首を振る。


「あいつ走るフォームが全然おかしかった。新井はもっとちゃんとやってるから綺麗だよ」


 こいつもわりと運動は出来る方だったな、と少し感心した。


「じゃあ、それ以外の誰かが正体で……」


 僕は、薄々全員が感じていたであろうことを口にした。


「いろんな奴に変身ができる。『誰か』は四人いるんじゃなくて、多分ひとり。僕らそれぞれに順番に化けてた」


 なんとなく、釈然とはしなかった。僕らはそれぞれに別の姿を持っている。でも、それはひとりにつきひとつきりなのかな、となんとなく思い込んでいたのだ。大抵は気持ちの落ち込みが原因でこの現象が起きるのだから、そんなに並行していくつも悩みを抱えていられない、ということなのかもしれないが。


「あの。私、少し心当たりというか、こうかなって考えがある」


 長瀬が静かに手を挙げた。


「何か心が辛くなるのが原因でしょ。もしその人が別のたくさんの人になることができる……なってしまうのだとしたら、悩みが推測できるんじゃないかな」


 『別のものになってしまえば、いっそ楽だ』。そういう気持ちの出どころを、長瀬夜子は探し出そうとしていた。


「『自分が嫌。自分以外の誰かになりたい。自分じゃなければ誰でもいい』」

「はあ⁉︎」


 細野みかげが声を上げた。


「どういうこと? いや、わかる、わかるけど、あたしそれ……なんか、やだ」


 彼女は自分の肩を抱くようにして黙ってしまった。細野は以前、自分らしさとか価値とか、そういうものに混乱して石になってしまったことがある。だから反発とか、ある意味で同族嫌悪みたいなものを感じるのはわかる。


「何かになりたいけど、具体的なイメージみたいなのは少なかった、みたいな感じかな」


 伴は顔を曇らせる。こいつはこいつで、その『誰か』と同じく人であることは変わりなかった。ただ、ずっと背の低い女の子になっていただけだ。細野とは逆に、少し親近感があるのかもしれなかった。


「でもその場合さ、もし元に戻れなくなったらどうなるのかな……?」


 僕が疑問を挙げると、しん、と沈黙が降りた。階段の方では生徒が次々に降りていく。顔見知りの奴もいた。この中にその『誰か』が交ざっている可能性も十分あった。誰がそいつなのかは全くわからなかった。でも。


「あのね。私、私たちがやられたことは許せない。何を考えているにしても、わざとあんなことをしたならすごく卑怯だと思う」


 長瀬が言う。どこか決意に満ちた口調で。


「でも、それはそれで……その『誰か』のことを解決しなきゃいけないと思う」

「ひどいことしたのに?」

「だからこそ、みたいな感じなのかな、長瀬が言ってんのは」


 僕は言葉を探しながら引き継ぐ。


「そいつが誰なのか、ちゃんと元に戻してからじゃないと、ふざけんなって言ってスッキリできない」

「そういうこと」


 長瀬は、母親の件をきっと引きずっている。目の前で誰かが戻れなくなってしまったり、困ったことになったり、そういうのは嫌なのだろう。たとえそいつがどうしようもない攻撃的なやつだったとしても。


 じゃあ、僕はどうだ。気持ちとして長瀬に賛成をしたいというのとは別に、僕はどう考えているのか。他の奴になりたいということ。自分の見た目とか、性格とか、もしかしたら好きなものまで捨ててしまって。


 そんなのは僕は嫌だし、それでそいつが楽になれると思っているなら、やっぱりふざけんな、だ。引き戻して、納得できるやり方でぴしゃりとノーを叩きつけてやらないといけない。だから言った。


「僕もそう思う。嫌な言い方すると、勝ち逃げされたくない」


 とは言うものの、と周りを見た。廊下は寒い。通り過ぎるみんなはとりどりの冬服で家へと帰っていく。これを全部疑ったり、見張ったりというのはちょっと厳しい話だった。


「それはわかった。ただ、とりあえずさ。今日は一度帰った方がいいのかも。あれ以上何かされたわけでもないし……」


 伴も寒そうに鼻をすする。そうだね、と細野も鞄を抱えた。


「なんかまたおかしなことがないように、合言葉とか決めとくのは?」

「スマホで連絡取れば一発じゃん」

「なんか面白そうって思ったのにー」

「決めるだけ決めとこうよ」

「長瀬まで何を……」


 言ってんだよ、と言いかけた時、二組の教室の方から声がした。


「みかちゃん、またねー」


 細野はぱっとそちらを振り向く。僕らもだ。細野みかげにそっくりな、黒髪セミロング、ピンクの暖かそうなマフラーをした少女が、目の前を通り過ぎて階段を下りていった。死角になっていたのか、僕らには気づかないようだった。目を見開いて怒鳴りつけそうになった細野に、僕はシッと指を立てる。気持ちはすごくわかる。わかるけど、その時起きた現象を見逃せなかったのだ。


 細野みかげの姿は、一瞬でかちりと切り替わったように、伴礼央の背の高いシルエットに変わった。僕らはそっと追いかける。伴はまたすぐに長瀬夜子になった。


「あいつ、実はコントロールできてないんじゃないのかな……」

「だとしたらまずくない? 戻れなかったら……」


 校舎を出たあたりで伴と細野がつぶやく。その後もそいつの姿は、クラスのいろんな奴や、時々は知らない奴に移り変わっていった。僕らの時のように、周りにはほとんど気づかれていないようだった。正月の時の伴の仮説を思い出す。ゲームのモデル指定がバグってるような、そういう現象が起こってるんじゃないか、というやつだ。確かにあの感じは、操作キャラとかアバターを変更した時みたいにも見えた。


「もうちょい近くで様子が見たいな」


 僕は呟く。その時、また思った。『できる』と。


 瞬間、僕は尻尾の先だけが白い、小さな黒猫の姿に変わっていた。バグりながら行く人影は、校門の前の横断歩道のところで立ち止まっている。


「三田村くん……?」


 長瀬が心配そうに僕を見下ろす。


「猫なら怪しまれないで追えるんじゃないかなって。後からついてきてよ」


 本当は、ひとりで行くのは少し怖かった。戻れなくなったらどうしよう、という恐怖はずっと僕の中にあるし、正体不明の相手は不気味だった。でも、行くしかない。猫は凛と怯まない。僕がなりたかったのは、きっとそういうものだ。


 するりと足を踏み出した瞬間、声がした。


「三田村」


 聞き覚えのある、だけど最近はちょっとご無沙汰していた、高い女の子の声だった。


「俺も行く。これなら気づかれないと思うから」


 細野が隣を見て、うそお、と小さく声を上げた。黒いセーラー服の上に学校指定のコートを着て、白いマフラーを巻いたふわふわの髪の女の子がそこにいた。


「『できる』って思ったら、本当になれちゃうんだな」


 前髪をバッテンのピンで止めた伴礼央は、大きな茶色い目で僕をじっと見つめていた。

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