追走ドッペルゲンガー/残響シェイプシフター
追走ドッペルゲンガー
第1話 何かが起こっているらしい
二月に入って少しした頃の昼休みの終わり。細野みかげが少ししょんぼりした顔で職員室から戻ってきた。現文の時間に数学の参考書を読んでいて先生に見つかったのだ。
「取られた?」
「返してもらったけど怒られたよー。あたしが悪いんだけどさ」
彼女は来年から理系のクラスに移るので、取っていない分野をある程度自習したり、基礎を補強したりする必要があるのだとか。ノリがいい奴かと思っていたら意外に頑固で粘り強くやる方のようで、秋頃から親しくなった僕らも、元から仲の良かった女子たちも驚いていた。細野は席にどかりと座る。
「でも、来年クラス別なの寂しいー」
「みかちゃんと離れ離れだよー」
「あたしだって寂しいよー」
女子たちは感動の何かをやっている。窓際の方の席を見ると、前髪をピンでバッテン留めした
三田村真也、つまり僕は。スマホを見下ろす。耳元ではイヤホンから落ち着いたバラードが流れている。今の気分ではなかったので飛ばした。ザリザリしたギターの音が欲しかった。その瞬間、何かが掴めそうな気がして、でも霧のように散ってしまった。DTMとか音楽理論とかをネットで見たりしているが、やっぱり自分で作るのに向いている気はしなかった。
長瀬夜子は教室にはいなかった。そういえば、彼女にはいろいろと聞いていないことがある。適当に書いたという進路の話とか、過去にあったらしい彼女の変身の詳細。少し話題にしにくくて、モヤモヤのままだ。
正月に猫になって以降、僕に変身は起こっていない。自分で変われるのかどうか、試すのも怖かった。呉さんは『自分の意志で変身ができる奴は見た。ただ、リスクについてはよくわからない。極力避けるに越したことはない』と言っていた。僕もそう思う。でも、次に『できる』と思ってしまったら、どうすればいいんだろう。
そんな時、ピコッと音がして画面にメッセージが着信した。
『呼んでんだから気づけよ』
顔を上げると、僕の席の前には学級委員の
「悪い、ぼーっとしてた」
「戸張先生が日直呼んでこいって。お前だろ」
そうだった。もうひとりの日直の女子、諸星を探すが、教室にはいないようだった。余市は、じゃあ俺が行くよ、と協力的だ。
「さすが学級委員」
「クラス一の秀才の僕としては、このくらい当然の務めですよ」
またわざとらしく眼鏡を上げる。黒板の辺りでは、誰かが何かバカなことを言ったらしく、どっと笑いが起こっていた。声を背に廊下に出る。
「またなんか聴いてたのか」
「ホフマンズの3rd」
「もうそんなん出てたんだ! 知らなかった」
「出たの夏だよ」
「その頃講習でヒイヒイ言ってたんだよ」
余市はそこそこ音楽を聴く。配信ではなくわざわざ店でCDをよく買うような奴は、知り合いではこいつとアイドル好きの何人かしかいない。中学の頃はボカロ系が好きだったらしい。高一の時はその辺の話題で少し盛り上がった。でも、勉強で忙しくなってからはやっぱりそれどころじゃないんだろうな、と僕は少し残念に思った。
「円盤で買ったから、なんなら今度持ってくる……ああ、長瀬にこないだ貸してたんだった。その後な」
「お前、あの長瀬とよくそんなに話せるよな」
「別に普通だよ。あの子、ノートにめっちゃ動物の落書きしててかわいいよ」
「はー」
職員室に着くと先生から、クラスの一部にだけ配るプリントを頼まれた。大した量ではなかったので僕だけが持って、余市はトイレに行くと言って先に帰った。
昼休みはもうじき終わるので、廊下からは人が少なくなっていた。配るのは次の休み時間がいいかな、と思いながら行く。階段を上がって二年の教室の階に差し掛かったあたりで、目の端に黒いものがよぎった。
長瀬夜子だった。黒く長い真っ直ぐな髪がなびいた。彼女はなんだかひんやりした顔をして前を通り過ぎようとした。
すれ違った僕なんてまるで眼中にないように。
「長瀬、もうすぐチャイム鳴るよ」
声をかけると彼女は振り向く。次は選択授業で、僕は二組の教室で世界史だが、長瀬は日本史で移動があるはずだ。急いだ方がいいと言おうと思ったのだが、その時の長瀬はなんだかいつもよりもずっと厳しい、凍りつきそうな目をしていた。
「話しかけないで」
長瀬夜子はそう告げるとそのまま、角を曲がっていってしまった。廊下に予鈴の音がゆっくりと響いていた。
世界史の授業中、僕はずっとぐるぐると考え事をしていて、気がついたらフランス革命はとっくに終わってえらい人数がギロチンにかけられていた。僕は頭の中にアイスの棒で作った墓をいくつも立てる。昔飼っていた金魚が死んだ時、マンションの敷地の隅でこっそりこんなことをした。
授業が終われば長瀬夜子が帰ってくる。そうしたらさっきの一言の意図が聞けるだろうか。それとも、怒ったまま無視をされるだろうか。そもそも僕は一体何をしたんだろう。ここしばらくはむしろ心配されたくらいでずっと仲が良かった。テストが近いからピリピリしてる? そんなのはみんなそうだ。僕個人が嫌われたわけではなく、とにかく人と話したくなかったのか。それならまだいいが、長瀬ってそういう子だったっけか?という疑問は残る。あれではまるで……。
そう。まるで仲良くなる前、僕が勝手に夜の化身のイメージを抱いていた頃の、想像の中の長瀬夜子みたいだ。
ぞくりと寒気がしたのは、風邪の前兆とかではなさそうだった。フランスはナポレオンが台頭して、また失脚して、僕の想像上の足元には『ボナパルト』と書かれた棒がさくりと突き刺さった。
チャイムが鳴ると、石像のように静かだったみんなは伸びをしながら動き出す。隣の席で完全に突っ伏していた原が突然がばっと起き上がったので、僕は心臓をばくばくさせながら、教卓に入れておいたさっきの先生からのプリントを取りに行く。
必要な奴の机にプリントを配っていると、日本史と地理選択の生徒たちもぞろぞろと戻ってきた。長瀬夜子はいない。日本史選択の奴に聞いてみたところ、授業中に具合が悪くなって保健室に行ったのだという。
さっきのは、体調が悪くてきつかったんだろうか、と思った。それならいい、というか逆に心配だ。でももし僕が嫌われていたのだったら、保健室にまで様子を見に行くのは逆鱗に触れるだけだろう。そうでなかったのだとしても、まずは無遠慮に押しかけたりせずにゆっくり休ませてあげた方がきっといい。
僕の嫌なモヤモヤは、どうも次の時間まで続きそうだった。
やがて、後ろのドアから伴が疲れたような顔で帰ってきた。黒板を消そうと前に移動していた僕と目が合う。
伴は、ものすごくしょげた犬のような表情をして、僕からふいと目を逸らした。
心臓が、また変な音を立てた。嫌な黒い油みたいなものが、じわじわと胸の中に広がる。伴とは今年の春に発表の班が一緒で仲良くなって以来、大きなケンカなんてしたことがなかったのに。
悪い予感がした。何かが起こっていた。細野はどうだろうか、と思った。もしかすると彼らは三人で話し合って僕を……いや。
僕は深呼吸をする。落ち着こう、と思った。僕はまだ誰ともちゃんと話をしていない。誤解かもしれない。そうでなくても、取り返しはつくかもしれない。教室で黒猫になんてなっていられない。三田村真也の名前の墓を立てるのは、まだ早い。
僕は急いで黒板を消すとまず、自分の席について背を丸めている伴に近寄ろうとした。その時だ。がらりと勢い良く前のドアが開いて、細野みかげが飛び込んできた。彼女はめちゃくちゃに怒った顔をして、近くにいた僕を見向きもせずに大股でずかずかと歩いていく。
お前もか、と僕はまた取り残された気分になる。だがそれは、すぐに打ち壊された。細野は眉をきりきりと吊り上げ、こんなことを言い出したのだ。
「ちょっと礼央ぽん何! さっきの、なんでああいうこと言うの!」
伴は憂鬱そうに顔を上げ、きょとんと目を丸くした。
「え、何? さっきって?」
細野は伴の机を軽くべちんと叩くと、機嫌の悪いポメラニアンのように吠えた。
「今! 地理の後! 廊下! めっちゃ感じ悪かったやつ!」
曜子りんも見てたんだからね、と友人を味方につけながら、細野は続けた。
「『話しかけんな』とか言っといて、なんでそんなぼんやりしてんの! あたしなんかした? なんかあった? 言ってくんないとわかんない」
伴はぽかんと口を開けた。僕も似たような顔をしていたかもしれない。それは口調こそ違えど、さっきの長瀬夜子と全く同じ言葉だった。
「……知らない」
伴はふるふると首を横に振った。
「知らない。さっき細野さんに会ってないし、誰にもそんなこと言ってない」
そうして、彼は思い切ったように身を乗り出してこう言った。
「俺が会ったのは三田村だよ。トイレの前で、『話しかけんな』って、同じことを言われた」
「はあ⁉︎」
僕は思わず大声を上げてしまった。ふたりの視線が僕に集中する。
「言ってないよ、なんだそれ。伴、それで変だったのかよ」
伴はくしゃっと顔を歪めた。三田村ー、と泣きそうになる。何か妙なことが起こっている。それは確かだ。僕は想像上の墓を蹴散らして、保健室に突っ走りたい気持ちでいっぱいだった。
長瀬に会いたい。長瀬。
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