第3話 世界は滲んでいたらしい
伴たちに連れられて来たちーちゃんの父親は、かなり慌てていたのか髪がぐしゃぐしゃだった。人混みに揉まれた状態のままで来たのだろう。でも、近づいた途端にちーちゃんはおとうさん、と嬉しそうに近づいていった。一応確認したところ、スマホに保存した幸せそうな両親とちーちゃんの写真を何枚も見せられたので問題ないと判断した。なんならこちらをお渡ししますよ、とか言われたので、カタカナ名前の企業の白い名刺までもらってしまった。
おとうさん、まいごになっちゃだめでしょー、とか言いながら遠ざかる背中を見送る。風船は楽しげにぷわぷわ揺れていた。
「はー、どっと疲れた」
「こっちも、後ろの列が気になってお参りしづらかった」
長瀬夜子は笑う。細野みかげは少し心配そうな顔をして僕の肩を軽く叩くと、女の子グループの方に駆けていった。もー、袋ぐっちゃぐちゃだよー、とか騒いでいる。一時間も経っていないくらいなのに、三年ぶりの再会みたいなテンションだった。寒そうだった長瀬と、あとくしゃみが止まらないとかいう呉さんに、とカイロを渡して、とりあえず軽い話からしてみる。
「長瀬は何お願いしたの?」
「そういうのって言っていいんだっけ? いろいろ」
いろいろ。僕の人生万事順風満帆と大差ないような気もするし、でも長瀬にはあの親の話とかもあるし、とどうもモヤモヤした。だから真っ直ぐに彼女の目を見た。
「僕は、長瀬が幸せになるようにお願いした」
嘘ではない。僕を取り巻く世界の全てが穏やかに幸せであればいいと思うし、その中でひときわ輝く宝石である彼女には、やっぱり最高にハッピーであってもらわないと困るのだ。
長瀬は、細野に話しかけられた時のちーちゃんのように目を丸くして、長いまつ毛を何度か上下に動かした。
「冗談だよ。つうか、みんな上手くいきますようにって言っといた」
「そういうこと。いきなり言い出すから何かと思った」
僕は周りを見た。みんなはこちらを気にせず何事か騒いでいる。細野が気を利かせてくれたのかもしれない。相談するなら今だった。
「それよりさ、さっき気になることがあって……」
全部話した。ちーちゃんの風船のこと。木に登れると思ったこと。実際に猫になって登っていったこと。すぐに元に戻ってしまったこと。長瀬はさっと顔を曇らせた。
「だ、大丈夫……?」
「僕は全然平気なんだけど、平気なとこが逆にまずかったりするのかなって」
「……わからない。お母さんはすぐに木になっちゃったし。末明さんに聞いてみる」
そうするしかなさそうだ。長瀬はすごく心細そうな、それこそさっきのちーちゃんみたいに迷子になってしまったような顔でちょっと手を持ち上げ、また下げ、力なく言った。
「本当に猫になっちゃわないでね。ちゃんとまた学校で会おうね。絶対だよ」
当たり前じゃん、と胸こそ張れなかったが、僕は頷く。長瀬はとても友達思いで、優しい子だ。僕は知っている。そろそろみんな気がついている。だから僕は長瀬が好きで、周りだってきっとそうだ。
長瀬ちゃん、一緒に撮ろう、と女子が呼ぶ。行ってきなよと言ったら、長瀬はこちらを気にしながらもゆっくりと向かった。代わりに僕は、その辺で眠そうに突っ立っていた伴の足を軽く蹴った。
「お前帰って寝た方がいいんじゃないの?」
「そうしよっかなあー。床で寝たのも良くなかったかも」
「風邪引くよ」
インフル流行ってんぞ、カイロいるか、と付け加えた。伴は目をしょぼしょぼさせて受け取った。
「……長瀬さんとはもういいんだ」
「うん、まあ、話すことは話したし」
「ガンガン行っちゃえばいいのに。俺応援してんだよ」
お前もか、いい奴め、と胸が苦しくなる。それからふと、僕は分断前に聞きそびれた伴の話のことを思い出した。照れ隠しついでに聞いてみることにする。
「そうだ。さっきのあれ、なんだったん?」
確か、ゲームがどうとかいうやつだ。妙に言いたそうにしていた。
「ん? ああ、あれ。いや、オープンワールド系のゲームやってたら変なことがあってさ。ダンジョンの中なんだけど、すげえ普通に村人がいるの」
「ほう」
僕は適当に相槌を打って先を促した。
「で、なんかイベントかなって思って近づいたら、いきなり襲いかかってきてさあ。名前表示は普通にモンスターだったわけ。調べたらこないだのアプデで出てきたらしい、初見殺しで有名なバグだった。びっくりした」
「おう」
女子の方を見る。六人で自撮りはなかなかに難しそうだが、めちゃくちゃ寄ったり、しゃがんだり、わいわいやっていて楽しそうだった。
……伴の話は続かない。
「え、それだけ?」
「いや、違うよ続きがあるよ! どう言えばいいか考えてたとこだよ。あのさ、これって似てないかなって」
「何に」
「俺たちのこの、なんかになっちゃったりするやつ」
僕はさっきの木登りの感覚を思い出した。伴のふわふわした女の子姿を思い出した。ごろりと転がった石を、喋る観葉植物を思い出した。
「バグみたいなことが起きてるって言いたいのか?」
「わかんないけどさ。ああいうのって、モデル?を表示する指示がこんがらがっておかしくなってるんだろ。別のところを参照しちゃってる的な。そういう感じのことがあるのかなーと。知らない人は気づきにくい感じなのも、それっぽい」
「怖いこと言うなよ。ここがゲームの中とかみたいじゃん」
「そういう意味じゃないけど! たとえ!」
空を見る。風を感じる。全部本物だと思う。この世界が偽物だったら、なんてぞっとするような考えは二年くらい前に通って、なんとなくそのまま振り捨ててしまった。
「ゲームならむしろ楽だよ。運営がメンテして、パッチ当てて終わりじゃん」
「神様ってパッチ当てたりすんのかなあ」
呉さんによれば、ああいう変身現象ってのは昔からあるものらしい。人探しをしたら別の姿に変わっていたことがわかったり、出どころのわからない遺失物が元々人だったり、なんてことは探偵業では時折見かけたのだとか。現国で『山月記』を読んだことがある。あれだって、あんまり自分と重ねたくはないけど、そんな感じの話だ。人が虎になる。
つまり、伴仮説に従えば、これまでずっと放っておかれてたバグだっていうことだ。もちろん、運営とか管理者みたいなものがいるのなら、だが。あんまりいなさそうな気がする。
そして、そのバグが原因で長瀬夜子はずっと苦しんでいて、おかげで僕は彼女の友達にしかなれない。さっきは自然に猫になるなんて妙なことがあった。悪化したら他人事ではない。僕は李徴になりたくはない。名前、李徴でいいんだったっけあいつ。
稲荷神社にまた近づく。小さな狐の石像は確か神様の使いだ。かわいいが、あんまり優秀なデバッガーという風情ではない。
財布の小銭入れには百円玉しかなかったので、賽銭箱に放り込んだ。二礼二拍一礼。神様。どうかこの妙な現象をなんとかしてくれませんか。僕のために。長瀬夜子のために。
「何やってんの」
「バグ報告」
何もかもがこれでいいのかよくわからない。窓口がここなのかも、報告を聞いてくれる管理者がいるのかも、百円ぽっちでいいものなのかも、頼み方も。僕らはひたすらに無力である。
あ、戸張先生、と女子たちが声を上げた。四十手前くらいの眼鏡の男の人が、奥さんらしき人と歩いていた。僕らのクラスの担任の先生だ。熱意に溢れているとか人気とかいうほどではないが、そこそこ信頼はされている、くらいの、僕にとっては当たりの部類の先生だと思っている。僕らは軽く頭を下げた。
「あけましておめでとうございます」
「おめでとう。団体だな。今日は結構いろんな奴が来てるぞ」
あっちに泉とか諸星とかがいたし、苫米地と森もいた、と言う。いずみん来てるんじゃん、呼んでみる?と女子たちは嬉しそうだった。わりと仲がいいらしい。
「あとは余市か」
あれ、と思った。あいつ、近所で会った時は講習に行くとか言ってた癖に、結局こっちに来てるんじゃないか。口には出さなかった。多分、サボりだ。しかも、僕にはああ言っていたのだから、ひとりで来たかったのだろう。褒められたことではないが、告げ口をする気はなかった。その辺はお互い見て見ぬ振りだ。
「じゃあな。あんまり羽目外すなよ」
はーい、と僕らは返事をして先生を見送る。猫のこと。バグのこと。長瀬のこと。進路のこと。悩みは多い。先生は相談しろというけど、最後以外はなかなか話しづらい。
風が強く吹いた。肌がぴりぴりとした。長瀬は長い髪を下ろしていたから、本人も周りも大変そうだった。目に埃が入ったみたいで軽く痛む。ぎゅっと目をつむったらじんわり涙が出て楽になった。悲しくなくても涙は出る。わざと出すことができる。さっきの猫になった時のようだな、と思った。伴風に言うとバグ技利用攻略、みたいなことになるんだろうか。あの風船、もう飛んでいかなければいいと思う。
滲んだ視界で不具合の生じた世界を見た。真っ先に目に飛び込んできたのはやっぱり長瀬で、それは何があっても変わらないみたいだった。
長瀬にとっては、余計な気持ちを持ってしまう僕がバグなのだろうか。友達以上に思ってしまう僕の心がエラーを吐いているんだろうか。でも、そんな僕を細野と伴は応援してくれるという。何を基準に考えればいいか、よくわからなかった。
一年の計は元旦にあり。僕の今年はこんな風に、どうにも先行きが不透明なまま始まった。余ったカイロは、帰ってから学校鞄に突っ込んだ。長い冬の間、きっと僕を温めてくれるだろう。
来週はスニーカーを買いに行こう、今度は黒猫の黒がいい。神様やバグじゃなくても叶えられる、僕の今年最初の願いだ。
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