第6話 逃がしたくない

 余市は少し考えて、女子ふたりではなく伴と僕を別の部屋へと連れて行った。見覚えのある余市の自室だ。壁には世界史年表とか地図とかが貼られていて、余市の丁寧な字でちょっとした補足とか、変な語呂合わせとかが書き込まれていた。


 本棚には参考書や辞典が詰め込まれ、下の方に漫画やライトノベルとかが押し込められている。机の上もそんな感じだ。カラーボックスにはゲーム機がしまわれて、その上にはCDが並んでなんとなく埃をかぶっている。昔はもっと親しみやすい部屋だった記憶があったのだが。


 余市はもう帰れよ、とかは言わない。どういうつもりなのか、どういう気持ちでいるのかはよくわからない。もし自分がやり込められるのを待っているのなら、どんなにいいかと思った。


「さて、言われた通り女子は置いてきたけど。何の話すんだよ。エロいやつ? そういやお前も女の子になれるらしいけど、それは気にしなくていいのかな?」


 伴は穏やかに笑った。そうしてすっと立ち上がって余市のところへ歩いていくと、彼の胸ぐらをがっつりと掴んだ。押されて下がった余市の手が机の上に積まれた本を崩して、ガタガタと物が床に落ちた。


「ふざけんな」


 初めて見る、本気で怒って歪んだ伴の顔は、めちゃくちゃ大きなライオンが低く唸った時のように威圧的だった。僕は慌てて間に入ろうとする。


「おい、伴、やめとけ」

「なんだよ、女子になってたのはほんとだろ……」

「殴ったりはしない。もうひとりの俺は今関係ない」


 ただ、俺はお前を許さないからな。伴はそう言って手を放す。余市は大きく息を吐いた。


「俺が怒ってるのは」


 声は静かだった。きっと、リビングまでは聞こえてはいないだろう。


「なんで好きな子にあんなひどいことすんだよ、ってことにだ」


 僕は耳を疑った。


「……好きな子?」

「長瀬さんだろ」


 ことさらに小声で、伴は言った。そういえばこいつは、僕が長瀬のことを気にしていたことにもすぐ気がついた。そして、長瀬の恋愛嫌いを知っている。だからきっと守ろうとしたのだ。余市をじゃない。長瀬の心をだ。


「俺、一番後ろの席が固定だから、よく人のこと見てた。余市は真面目かと思ってたら結構よそ見してんなとか。特に今年に入ってからは、妙に窓際の前の方を見てるなって思ってた。長瀬さんの席だろ。今日なんとなく繋がった。余市、長瀬さんが話すたびに微妙な顔してる」

「……マジで?」


 全然気がつかなかった。それじゃあ、僕と同じじゃないか。でも、ほとんど会話したことがないはずなのに?


 足元に本を踏みかけて、ふと何か落ちているのに気づく。夏の林間学校の時の販売写真が何枚か。全部、長瀬が写っているやつだった。僕がまだちゃんと話したことがない、夜の化身のイメージだった頃の、寂しそうな長瀬だった。スマホで撮りもせずに、こんな形で。


 そうか、だから僕が嫌いなのか、と少し腑に落ちた。


「つまり、長瀬と仲良くしてる僕が許せなくて……」

「半分はな」


 余市が諦めたように首を横に振る。わかったふりしてんなよ、という顔だ。そして彼はまたスッと姿を変えた。目の前に立つ、背の高い伴礼央の姿に。不揃いだった目線が揃う。


「これは言っとくけど、俺、別に今の長瀬本人が好きなわけじゃねえよ」

「なんだそれ」


 あいつ、お前らと付き合うようになって変わったからな、と彼は言う。変わったのじゃなくて、素が見えるようになったのだと僕は抗弁した。どっちだって同じだよ、と返された。


「俺が気になってたのは、転校したての頃の長瀬だ。つまり見た目とイメージだけ」


 僕は四月の始業式を思い出す。長い黒髪の転校生。長瀬夜子です、と静かに告げられた名前は、何よりも彼女に合っていた。どよめきが起こったくらいだ。あんまり雰囲気がありすぎて、みんな近寄りがたそうだった。僕だってそうだった。長瀬夜子はおかげで、秋口までずっと『謎の転校生』のままだったのだ。


 今はそんなことはない。長瀬は寂しがり屋で友達思いで、ちょっとめんどくさくて、ジャンクな食べ物も好きで、床にペンを落としたら足で引き寄せたりもする、ということがだんだんわかってきた。


 夜みたいな子だと思ってた。そんなことなかったな。一瞬だけ余市の口調が揺れた。余市卓の視線は、きっと昔の僕が長瀬に向けていたものと、同じだった。


「ずっとああだったら良かったのにな。お前が話すようになったせいで、全然好みじゃなくなった。腹も立つよ。だから八つ当たりした」


 伴はもう一度掴みかかりそうな顔になって、それからくしゃりと泣きかけて顔をこする。伴は偉い。長瀬をよく遠ざけてくれた、と僕は拳を握り締めた。長瀬が噛み締めてきた孤独をそんな風に茶化すことは許せなかった。感情のままに何か言おうとした時、伴が湿った声を上げた。


「なんでそういうことするんだよ。理由はどうだって好きなんだろ。周りの俺らが嫌なのはわかったけど、本人くらいはちゃんと大事にしろよ。ちゃんとさあ……」


 伴は多分、自分の思い出と格闘している。クリスマス会の終わり頃、奴はずっと、彼女を大事にできなかった、と泣いていたのだ。そういう奴だ。……優しい奴だ。一番怒っていたのはきっと伴だった。こいつは自分自身ではなくて、周りの誰かが踏みにじられた時に初めて憤りを覚える奴だったのだ。


「お前いい奴だよなあ。友達のことそんな心配してさ。俺はそこまでの仲良しはいないから、羨ましいよ。好きな格好して好きな相手といるの、最高じゃん」


 余市は伴の顔で歪んだ笑みを浮かべ、また姿を変えた。羨ましい。そうか。ちょっとだけわかった。細野にもそんなことを言っていた。やりたいこととか、好きなこととか、余市はそういうものに憧れている。こいつは細野にも、伴にもなりたかったのか、と思った。


 でも、これだけじゃ足りない。彼の中にはきっと、やたらにもつれた糸みたいにたくさんの感情が眠っている。ひとつふたつ引っ張り出しただけでは崩せない。


 僕はずっと混乱していた。奴の変身をこれ以上悪化させたくない。でも、こんな風にどんどん周りを傷つけていく相手に、どう接すればいいんだ、と。


 歯がゆかった。友達が攻撃されているというのに、伴みたいにきちんと怒れない自分が嫌だった。


「さて、これでもういいだろ。理由がわかって、スッキリしたんじゃないのか。俺はそのうち消えるし……」

「まだだ」


 それでも、僕は自棄になりかけながら顔を上げた。


「まだ気になることがある。付き合え。全部吐いて元に戻れ」

「はあ? お前いい加減俺のことムカついてんだろ?」

「ムカついてるけど、ムカついてはいるけどさあ! せめて教えろよ!」


 何を、と言いかけたところに僕は叫ぶ。いろいろと言いたいことはあったが、順番がある。まずはこれだ。


「なんでさっきからわざわざ僕らの神経を逆撫でするような言い方ばっかしてんのか、ってことだよ!」


 そんなの当たり前だろ、嫌なんだから、と余市は言う。そうかもしれないが、やっぱりおかしかった。だって、中身で幻滅したと言うくせに、その後も余市は長瀬を見ていたし、手が届くところに写真を置いていたんだから。あれが全部本心だというのは腑に落ちない。なんで細野や伴のデリケートな部分を突くのか。理由があるはずだ。あってほしかった。


「余市、お前わざと嫌われようとしてんだろ」


 余市は片眉を軽く上げただけだった。


「そうかもな、とっとと見限ってもらって、さっさと消えたい」

「逃がさない」


 僕は宣言した。


「聞きたいことが山ほどあるんだ。だってお前……」


 僕がある指摘をしようとして少し言い淀んだ時、コンコン、と部屋の外からノックの音がした。


「ねー、まだ話し中?」

「途中から三田村くんの声があっちまでやたら聞こえる。これ、意味ないと思う」


 伴は僕の顔を見て、そうして力なく頷いた。余市は長瀬の写真をさっと隠すと、部屋のドアを開ける。女子たちは不思議そうな顔で入ってきた。うわ、ガリ勉部屋だ、と細野が声を上げた。


「伴くんが何の話してたかは聞かないけど……」


 長瀬は僕と余市を大きな黒い目でじっと見る。何もかもを見透かしていそうな目だった。僕はこの目が好きだ。多分、余市もそうなのだろう。少しだけ下がった眉を見ればわかる。


「余市くん、あなたはもしかして、何かあるの?」


 は、と余市は口を大きく開けた。伴は逆に唇をきゅっと閉ざす。細野は神妙な顔で長瀬の後ろに立っていた。


「なんで」

「だって、ずっと。伴くんが何か言ったっぽい後ずっと、から」


 長瀬夜子は、僕がどう伝えようか迷っていたことをさらっと言ってのけた。そう、そうだ。


 余市卓は、伴の姿から僕、三田村信也の姿に変わり、それからずっと僕の顔と声で喋り続けていたのだ。


「……もういい。もういいや。やめだ。出てけよ、お前ら」


 余市卓は自分の顔を触って、そうして引きつったようにぎこちなく笑った。


「出てけ」

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