第5話 走る

 まず伴と猫の姿の僕は、やり直したいってなんだ、ってことを早足で行きながら話した。目はあちこちを見回す。絶対に影の長瀬を見逃すわけにはいかなかった。


「こっちに来た時の話かな。だとしたら駅か道路?」

「あの感じだと財布とか持ってなさそうだし、歩ける範囲だとは思うんだよな」

「学校ってのはありそうだ」


 ああ、と僕は目を伏せる。もし本当に全部僕のせいなら、一番やり直したいのは僕との関係で、直接的にはあの日の廊下のやりとりだろう。長瀬は僕がいつ頃から彼女を好きだったかなんて知らないわけで。


「呉さんは駅周辺を回って聞き込みをしてるって。俺学校行こうか」


 僕が行きたい、猫だし隠れて行けるし、とわがままを言いかけて、ふともうひとつの可能性に思い当たる。


 長瀬がもし本当に僕の気持ちを知ってしまったことがつらくて、重たくて、僕とのことをやり直したいと思っているのだとしたら。僕からすれば、戻るとしたらクリスマス会のあの筆談だ。でも、長瀬はきっと、僕があの時はっきりと彼女を意識したということを知らない。学校での決定的な亀裂を除けば、もうひとつ遡れるポイントがある。


 僕が初めて猫になった日、長瀬と偶然出会ったあの夜だ。


「……頼む。僕はもう一個行きたいとこがある。川の方」


 行かなきゃ、と僕は足を速める。伴は頷いて、僕らは別れた。後ろから、気をつけろよ、ちゃんと戻れよ、と声が飛んできた。


 僕は繁華街を離れて走り出す。鮮やかなネオンが後ろに流れていく。もうすぐ夜が来る。駅前から遠ざかれば明かりは少し少なくなる。より影になった長瀬を探すことは難しくなる。


 僕は、四本の黒い小さな足で走り出していた。『なりかかっている』のなら、今度こそ本当に戻れなくなるかもしれない。僕はあの事務所で、本当はまだ戻れると感じていた。それなのに、そのまま猫の姿でいることを選んだ。自分で選んだ。先のところだけ白い尻尾を揺らして進むことを。


 走る歩幅自体は小さいが、猫の目は夜でもよく見える。鼻も効くし、耳だっていい。きっと長瀬を見つけるのに役に立つ。『できる』って僕は思った。僕は僕を信じた。


 走りながら、五感をフルに酷使しながら、僕は脳髄の奥でパチパチと緑色の電気が弾けるのを感じた。何かがぼんやりと繋がり出していた。僕が何度か掴み損ねていた自分の中の道筋だとか。長瀬が僕を連れ戻してくれたことだとか。白紙の進路調査用紙。伴や細野の別の姿。呉さんの手助け。長瀬の母親。バグだらけの世界。余市にアルバムを貸したこと。営業部の名刺。『なりたいもの』と『やりたいこと』。


 店の多い辺りから少し外れて、建物や街灯の明かりが周囲を照らす。黒猫の姿は闇に紛れやすくなった。信号ではちょっと止まって待っていたら、うちの制服の知らない誰かにかわいい、と笑われた。


 僕は、夜に溶ける自由な黒猫になりたかった。今だってそうだ。でもそうじゃなくて、それだけじゃなくて。僕は長瀬を助けたい。つまずいて気持ちに擦り傷を負ってしまった人がいたら、手を差し伸べて起こしてあげたい。それは好きな子だろうが、友達だろうが、家族や世話になった人だろうが同じことだ。大人だって子供だって変わらない。傷を魔法でパッと治すことはできない。でも、あとほんの一歩二歩歩き出すまで一緒にいてやることはできる。


 今は長瀬だ。特別な椅子に座ってくれなくたっていい。僕は嫌われたっていい。不具合だらけのこの世界にいて、大好きな友達と一緒に笑っててくれ。


 そのためなら、何にだってなってやる。猫じゃなくたっていい。ひた走る僕は、頭の中で様々な生き物、様々な形に姿を変えていた。生き物だけじゃない。この世のありとあらゆるものになりたかった。そして何になったって、僕は僕だった。


 すれ違う人の足を避けて走った。僕は風だった。暗い横道に長瀬がいないか探った。僕は月だった。高い木に登って、また飛び降りた時、僕は雲で、降り注ぐ雨だった。雨は地面に落ちて水たまりを作る。水は染みて地面とひとつになる。地球になった僕はまた走り出して、風に戻った。横断歩道、建物の陰、信号の光。植え込みの花。


 長くて短い旅路の間、ずっと心臓が奏でていた音がある。サードマグニチュード。そう有名でもないバンドのアルバムの、二年と半年くらい前に出したアルバムの三曲目。長瀬が僕にくれたメッセージが、映画のワンシーンのBGMみたいに僕を勇気づけてくれていた。


 ふと、僕の耳がぴくりと動いた。微かに聞こえるのは、誰かのすすり泣くような声だ。涙をこぼし尽くして、それでも悲しくて、声だけを擦り切れるまで出し切ろうとしているような、そういう声だった。僕はそちらを目指してひょいと高所から飛び降りる。長瀬じゃないか、と気持ちが膨らんで、心臓がびりびりした。道も、僕が想像していた場所に近い。水の匂いがする。川がある。


 僕と長瀬夜子が、本当の意味で初めて会った場所だ。


 土手沿いの道に、僕は滑り込むようにたどり着いた。辺りを見回す。夜の帳が降りる。街灯は少ない通りだから、目だけで見つけられるかどうか。流れに逆らってざぶざぶ泳ぐような気持ちで、僕は猫の姿のまま土手を駆けた。声は少しずつ近づく。もう少しだ。


 目の前に、真っ黒い夜がいた。


 影のような姿は、ふらふらと声だけで泣きながら道を歩いていた。明かりがもう少し遠かったら気がつけなかった、それくらいにその輪郭は薄く周りに溶けかけていた。でもわかる。人型に真っ黒く景色は消え、髪の長い女の子がそこにいることを示していた。


「長瀬」


 やり直したいと言っていた。でも、もう僕は長瀬にさん付けをしない。夜のようだった女の子の、どうしようもなく人間な一面を知っている。


 影はどうやらこちらを振り向いたらしい。泣き疲れた声が弱々しく聞こえた。


「私、猫に知り合いなんていない」


 僕は彼女を見上げる。この子も夜に溶けたかったのだろうか。誰かもわからない影になって、消えてしまいたかったのだろうか。僕の黒い輪郭も、もうほとんど外の空気と見分けがつかなくなっている。


 でも、僕は黒猫だけど、目は緑で、尻尾の先には白いぶちがある。そこだけは星のように、闇の中で小さく瞬くんだ。


「話をしよう、長瀬」


 僕は黒猫で、直接手を伸ばすことはできなかった。女の子の形の夜は、微かに震えて立ち尽くしていた。

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