第4話 僕は飛び出したかった

 あの子嫌いなのよ、と木は——かつて長瀬夜子の母親だったはずの木は、クリスマス会の時と同じくそう切り出した。それを聞いて僕の猫の心臓は、きゅっと握り締められたような痛みを覚えた。


「末明くんがいないとすぐあたしに話しかけてくるの。今日何があったとか、何かが楽しかったとか、嫌だったとか。あたし興味ないのに。木だから」


 母親に話しかけても何も返事をしてもらえない、長瀬の孤独はどれほどだったろうか。


「まあでも、最近はわりと明るい話が多かったからマシではあったかな。別に不幸になれとは思わないし。いいんじゃない、って感じ」


 僕はこみ上がってくる反感を押し殺しながら尋ねた。


「その前は暗かったんですか」

「まあねー。ここに来る前はひどかったし、来てからもしばらくはめそめそしてた。あなたが来てだいぶ良くなったのよね。黒猫くん」

「ひどかったっていうのは……」


 伴がおずおずと参加すると、木は返事をしない。


「教えてくれませんか」

「黒猫くんならまだいいけど、他は嫌」

「なんで」

「あたしと同じだから。もうでしょ」


 僕はざっと背中の毛を逆立てた。全身が恐怖でいっぱいだった。そんなことはない、ほら、すぐ戻れますよって言い返そうとした。でもわからない。


 元の僕はどんなだっけ?


 細野は自分を忘れかけていたし、余市は戻り方がわからなくなったと言っていた。あれに近いのかもしれない。でも、僕は今猫になりたかったわけじゃないんだ。


 喉の奥から、よくわからない唸り声が漏れた。


「なっちゃえば楽よ。あたし前のこと全然覚えてない。末明くんは大事にしてくれるし」

「僕のことはいいです。長瀬のことを聞かせてください」


 声が震えそうになったけど、なんとかそう答えた。


「あの子もね、もうじきかも。前はちょくちょく影みたいになってた。苦しかったんでしょうね。まあ、影の見た目は自分で嫌いみたいだけど。で、昨日からまたあれが復活して、さっき我慢できないみたいに出て行っちゃった」

「なんで行かせたんですか!」


 母親が呼び止めれば、きっと長瀬は行かなかった。影から戻れたかもしれない。ひとりぼっちで、暗くなっていく外に紛れることもなく、ここで僕らとまた会って仲直りができたかもしれないのに。


「その方がずっと楽だから」


 木は不意に、ひどく暗い声を出した。


「あの子が泣いてるの、ずっと見てた。覚えてないけど、あたしのせいでもあるのは知ってたわよ。人でなくなって幸せになれるなら、その方がいいに決まってる。そしたらもっとめそめそしなくなるかもしれないし、ちょっとは好きになってあげてもいい」

「幸せって」


 細野が息が詰まったような声を上げた。


「だって、そしたら長瀬ちゃん、あたしたちのとこに戻ってこないかもしれない」

「そうねえ。影だから、学校なんて行かずに外でぼんやりしてるのが自然でしょうね。誰でもなくなって。みたいね」


 ごとん、と灰色の石が床に落ちて転がった。まるで呪いにかけられたようだった。僕らは目を見張るが、木はまるで平気な顔だった。


「そ、そんなの幸せなんて言えないよ。俺、もっと長瀬さんといろんな話がしたいよ」

「なんでそんなことが言えるの? あたし、ちゃんと聞いてたわよ。見たまま普通に王子様みたいに扱われて、それで普通に幸せになれなかったのは、あなたじゃないの?」


 伴は顔を引きつらせた。瞬間、彼の姿はまた、ふわふわした髪の女の子に変わってしまった。話さないと言ったくせに。それとも、もしかしてもう彼らも『なりかかっている』のだろうか。


 痛いところを突かれた、という感じだった。僕らは一度この場所で、確かに思ってしまったことがある。『これでいいんじゃないか』『こっちの方が自然じゃないか』と。それを、思い出してしまった。木は、ずっと見ていたんだ。


「別に話せないことないわよ。……まあ、溶けて消えちゃったら別だけど。あっちが気が向けば来てくれるんじゃないの。友達なら」

「あなたは自分の娘に答えてやりもしなかったじゃないですか!」


 僕は頭の中身が煮えたぎるような気持ちになって、長瀬と木の秘密をぶちまけてしまっていた。ふたりとも驚いたような声は上げなかった。薄々気がついていたのかもしれない。木の話す響きは、長瀬夜子の涼やかな声とよく似ていた。


「泣いてたんだろ。ずっと話しかけてたんだろ。家族だろ。なんでひとりで勝手なこと言うんだよ。別になりたきゃ木になったっていいよ。でも、苦しんでる時は少しくらい力になってあげろよ」


 しん、と沈黙が降りた。僕は当然の話をしているし、同時にひどく身勝手でもあると考えていた。長瀬の母親の事情を、僕は長瀬からしか聞いていない。彼女には僕の想像もつかないような、彼女だけの苦しみがあったのかもしれないと頭ではわかっている。だけど。


「あなたの好きな呉さんは、今頃長瀬のことを走り回って探してるんだよ」

「もう戻れないからね。行きたくても歩けないの」


 声は乾いていた。事務所の電話が鳴る。伴が取って少し話して、やっぱり見つからないみたいだ、手伝ってもらえないかって言ってる、と僕らに告げた。


「僕は歩けます」

「ずいぶん小さいけどね」

「どこにだって行きます。擦り切れたっていい。探します」


 僕は、薄暗く黄昏てきたガラスドアの向こうをきっと睨んだ。


「友達です。ずっと好きなんです。あの子を助けられないなら、僕なんて何になったって同じだ。意味がない!」


 僕は前に踏み出した。わかりました、すぐ行きます、と伴が電話を切りドアへと向かった。細野は石のまま、あたしは細野みかげだもん、と呟いた。


 猫にはドアは開けられない。でも、僕には大切な友達が横にいる。僕は三田村真也で、長瀬夜子が大好きだ。それはもう、何があっても今は変わらない。僕らはこの場所で確かに一度折れて、また立ち直った。それだって本当なんだ。


 ずっと横で助けてくれていたのが長瀬と呉さんなら、今度は僕らが力にならなきゃいけない。何より、今回長瀬を深く傷つけてしまったのは僕なんだから。


 逃げないで、話をしようよ。長瀬。直接聞きたい。嫌いになったんなら、嫌だって言ってくれ。地面の底まで落ち込むのも、そのままの気持ちで猫になってしまうのも、長瀬が影になっていなくなってしまうよりはマシだ。マシなんだ。そう伝えたかった。


 伴がドアを開けてくれたので、僕は外のまだ肌寒い空気の中へと飛び出した。陽は沈み、空は群青に染まりかけている。伴が僕に続いてひょいと出てくる。ふわふわの髪の女の子は、すぐに背の高い男子に戻った。僕は猫のままだ。細野も人の姿に変わり、僕らに駆け寄るもドアの向こう側に留まった。


「あたし待機してる。長瀬ちゃんが帰ってきた時に誰かいないと寂しいでしょ」

「大丈夫? また石になったりしたら」

「平気。今はそんなに落ち込んでない……え?」


 外からはよく聞こえない、何かぼそぼそとした声に彼女は耳を澄ませていたようだった。そして言った。


「長瀬ちゃん、やり直したいって言ってた、って」

「木……お母さんが?」

「うん。ヒントになるかも。探してあげて。あたし、もうちょっと一緒に話してみる」

「引っ張られるなよ。細野だっていなくなったら絶対困るんだからな」


 彼女は力強く頷いた。不安は残るが、でもそれ以上に、この芯が強くてやりたいことはなんだってやる女の子をちゃんと信頼しようと思った。彼女が、長瀬を探す僕らを信じてくれているのと同じくらいに。


 行こう、と僕らは眩しいネオンに満ちた夜に飛び込んでいった。

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