第3話 知っていたはずなのに
大崎は昨日、塾帰りで少し帰りが遅かったのだという。駅前の溢れ返るようなネオンの中を早足で歩いていると、なんだか気になる音が耳に飛び込んできた。女性の、微かにすすり泣く声だった。
どうしようか、トラブルだったら巻き込まれたら大変だし、でも体調とかが悪い人がいるんだったら、と彼女は辺りを見回して考えた。その時、視界の端に何かが映った。なんか黒いな、と思ったそうだ。
「あ」
女性、もっと言えば若そうな女の子の、何かに気がついたような声がした。大崎は振り返る。息を飲んだ。
背後には、ネオンの明かりの中、黒い人のシルエットが浮かび上がっていた。四方八方から明かりに照らされているのに、顔や服の様子は何も見えない。墨で塗り潰されたような影だけがそこに立っていた。
大崎は、反射的に悲鳴を噛み殺しながら、その場から逃げ出した。その後のことはわからない、と語っていた。
「怪談じゃん、こっわ」
「他の人はどうしてたの?」
「わかんない。特に騒いではなかった」
ぱっとしか見てないんだけど、スカート履いてる髪が長い女の子って感じだった。そう締めくくると、ひゃー、と声が上がる。大崎的には心底恐怖を感じているようだったが、周りはなんとなく能天気で、都市伝説タグつけて投稿しなよ、とかいう話もしていた。
大崎の怪談をぼんやり聞いていた僕らは、顔を見合わせた。視界に走る黒。なんだか、昨日覚えがあった。駅前の繁華街。場所も同じだ。
「大崎大崎、それ、駅前のどこら辺?」
僕は思わず立ち上がっていた。
「え、アーケードの隣の通りだよ。パチンコ屋とかうるさい辺。奥の方行くと客引きとかいてちょっと怖いとこ」
もう近寄りたくない、と彼女は少し震えていた。無理もない。
「三田村、気になる?」
自分もなんだか引っかかった様子の顔で、伴が声をかけてきた。女子たちは、なんかヤバいお店で働いてた人の霊が、とかいう方向で盛り上がっている。
「……呉さんの事務所の辺じゃないかなって気がして」
嫌な予感がしていた。思い込みかもしれないけど、でも、僕らが知っている不思議はひとつだけ。人が何か別の姿に変わってしまう現象だけ。長い髪、スカートの女の子。
「長瀬だったらどうしよう」
僕はクラスの皆に聞こえないよう、押し殺した不安を小さく吐き出した。
「長瀬ちゃんとは限らないと思うけど、でも、もしかしたら大変なことになってる人かもしれないもんね。人助け人助け」
細野みかげはちょっと空回りした感じに明るい声を上げる。午後四時半の繁華街は、晴れた日でもやっぱりどこか灰色だ。
「ついでに事務所に行けば確認もできるし」
下を向いていたら、三田村元気出せよー、と伴につむじのあたりをつつかれた。僕はもうぐちゃぐちゃだ。ああもう、早く夜になればいい。溶けてしまいたい。猫になりたい。
(本当に猫になっちゃわないでね。ちゃんとまた学校で会おうね。絶対だよ)
一月に言われた言葉を思い出したりもした。あの頃はこんなめんどくさい気持ちにならずに、長瀬ともちゃんと友達ができていて、僕は。
「……ね、ふたりとも」
前を歩いていた細野が、ぴたりと足を止めた。声に緊張が走っていた。
目の前には、影がいた。ビルの壁に寄りかかるようにして下を向いていた。真っ黒いシルエットは不確かで、長瀬に似ていると言えばそんな気もしたし、全然関係ない別人のようでもあった。身長は確かに長瀬くらいで、髪は長いようで首元が見えない。下はスカートを履いている。ただ、地面に伸びた影とは違って、僕らの前にしっかりと二本の脚で立っていた。
「あ、あの……」
細野が遠慮がちに声をかけようとした。影が微かに身じろぎをした。何か言ってくれれば、声で長瀬かそうでないかわかるはずだ、と僕は唇を噛む。
影は何も話さなかった。ただ、ぱっとそのまま道を駆け出した。そのまま裏道を折れて、どこかに消えてしまった。
僕らは慌てて後を追う。でも、細い路地は夕方でも暗くて、あのまま別のところへ抜けてしまったのか、それともその辺りに潜んでじっとしているのかはよくわからなかった。
おかしいな、と思った。大崎は声をかけられたみたいなのに、僕らは逃げられてしまった。知らない人だとしても一貫性がないし、もしあれが本当に長瀬なら、変身のことを知っている僕らがおいそれと彼女を怖がることなんてないってわかるはずなのに。見た目だって、奇妙だけどそんなに気にするほどひどく醜いということもない。
「事務所。事務所行こう。長瀬いるかもしんないし。いたらまた相談しよう」
僕が歩き出すと、ふたりも続く。ビルの外階段を二階に上がる。『呉探偵事務所』のガラスドアの中には客が来ている様子はなかったので、そっとドアを開けた。
「すみません……」
声をかけると少し間が空く。何か物音がして、呉さんが奥の方から出てきた。片付けでもしていたのか、軍手をはめてラフな格好をしている。
「おう、しばらくぶりだな。夜子お前、人が来たら対応をしろよ。……?」
呉さんはぐるっと事務所中を見回した。事務所の中には応接用のソファセットがあって、ローテーブルがあって、脇に観葉植物があって、資料の棚があって、よくわからない物置みたいなところがあって、呉さんの雑然としたデスクがあって。
「どこ行ってんだあいつ」
「今日は事務所にいたんですか?」
「ああ。……学校に行きたくないとか言ってたからな。部屋で寝てるよりは何かさせといた方がいいかと思ったんだが……」
しん、と沈黙が降りる。呉さんは住居側も見に行って、眉間に皺を寄せて帰ってきた。
「勝手に外に出たのか」
「……もしかしたらなんですけど、あの、さっき外にそれっぽい……影みたいな人が」
呉さんは顔色を変えた。それから、多分僕以外のふたりには意味がわからないであろう行動に出た。
「
彼は事務所に置いてある観葉植物、ベンジャミンの鉢植えを怒鳴りつけたのだ。そうしてから、ハッと我に返ったような顔に戻る。
「……いや、すまん。悪い。探してくる。その辺で待ってろ」
そのまま、呉さんは軍手を外して放り投げると、薄赤い空の下に駆け出していく。僕は追いかけようとした。した瞬間にぐにゃりと視界が変わって低くなる。僕はまた尻尾の先以外は黒い小さな猫になっていた。さっきから気持ちはどん底で、自分を信じられなくなっていた。だから、そろそろガタがきたのだろう。目の前でドアが閉まった。猫ではドアを開けることができない。僕は無力なままうなだれる。
「……あの影、やっぱり長瀬さんだったのかな」
伴が少しずつ状況を飲み込もうとするような顔で言う。
「さっきのは、何?」
「多分この鉢植え」
細野がドアの前でじっとしている僕を持ち上げた。ひたすらに落ち込んでいた猫の僕は、大人しく運ばれながらふたりに伝えた。
「鉢植え」
「見てたんですよね。長瀬が出てくとこ」
僕は自分の無力さと、長瀬の母親の無関心に無性に腹が立ってきて、呉さんがしたように鉢植えに話しかけていた。
「え、これ、もしかして元・人なの?」
「話せるんでしょ。僕は見てたから知ってる。なんか知ってることがあったら教えてください」
細野の腕をするりと抜け出して、鉢植えの前に着地する。僕は牙を剥いた。
「僕には爪と牙があります。傷つけられたくなかったら——」
「やめて」
女の人の声がした。半信半疑の顔だった伴と細野が表情をさっと引き締める。
「やめてよ。ひどいことするのね」
もちろん本当に木を引っ掻いたりするつもりはなかった。長瀬と呉さんが悲しむに決まっているからだ。でも、脅しは覿面に効いたようだ。
「お願いします。教えてください」
「何を話せばいいのよ。あたし、ここのことしか知らない」
それでいいです。僕が知りたいのは長瀬のことだけです。絞り出すような気持ちで、ぼくはそう言った。
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