第2話 相談して良かったらしい

 またおかしなものを見たんです、と伴と別れた後、僕は『呉探偵事務所』に駆け込んだ。

 雑然とした机の前に腰に悪そうな姿勢で座った呉さんが、ノートパソコンからぎょろりと目を上げる。


「今日は人か」


「猫だとドアが開けられないんで」


 答えながら、言い訳のように付け足した。


「お仕事中すいません」

「そうだな、報告書ミスったらお前のせいだ」


 呉探偵の事務所を訪ねるのは四回目くらいだが、一応業務の邪魔にならないようにはしている。受付時間が午後六時までだから、訪ねるのはその後だ。ガラスのドアからそっと様子を見て、中に人がいないか確かめる。そもそも、これまではずっと探偵の姪である長瀬夜子が一緒にいたから、それほど迷惑もかかっていなかったと思う。呉さんも最初よりは少し態度が柔らかくなって、冗談なんかも言ってくれるようになった。


「どうせ来たんなら、奥で俺の分までコーヒーを淹れてけ。その後聞いてやる」


 扱いが雑になったような気もする。奥の小さなキッチンに入ると、長瀬夜子がパイプ椅子に座ってボトルの水を飲んでいた。ひらひら、と手のひらが蝶のように揺れる。僕はさっき見た伴とその彼女の別れ際の熱を思い出した。


「あのさ、そう、さっき外で……何から言えばいいかなあ」


 僕は微笑ましいような見せつけられたような当てられてしまったような、色とりどりの紙吹雪をぶち撒けられたような混乱した頭で話のとっかかりを探した。そして。


「長瀬さんは付き合ってる人、いる?」


 綺麗な形の眉が訝しげな曲線を描いた時、ああ、馬鹿なこと口走ったなあ、と思った。答えが「いない」だったのがせめてもの幸いだったかもしれない。





「お前は意外とコーヒーを淹れるのが上手い」


 ドリップバッグのパッケージに書いてあった通りにお湯を注いだだけなのだが、向かいの呉さんはぶっきらぼうに褒めてくれた。僕はコーヒーの苦味は苦手だから、冷蔵庫にあった烏龍茶をもらう。表のソファセットのところに戻ってきた長瀬夜子は透明のボトルを時々口にしながら、柿ピーを紙皿にざらざらと開けて食べていた。隣に座った僕も少しいただいた。


「それで、その友達とやらが心配か」

「心配だし、ちょっとよくわかんなくて」


 ざっと伴の話をすると、ふたりは似たような顔で目をぱちぱちとさせた。ちなみに、プライバシーのことを少しは考えて名前は伏せてある。長瀬もクラスの誰の話なのかはわかっていないはずだ。


「女の子になりたい、ってのはまあ、わからなくもない……というか、なんかあるんだろうなって気はするんだけど、あいつ彼女いるんですよ。しかも僕を見つけたらまた戻っちゃった」


 どうも自分が変身をしていることには気づいていないのではないか、という感じはするが、それにしても、あれでは伴が女の子に見えるのは知らない人だけだ。隠れた願望、というやつだろうか。


「本当は男が好き、とかなのかなとも思ったけど、彼女とはだいぶ仲が良さそうだったし。その辺で嘘つける奴じゃないんです」


 人狼ゲームが少し流行った時、伴はあまりに演技が下手なので毎回強制的に村人にさせられていた。余計なことを言うというよりは、隠し事があると気もそぞろになるのだ。——ちょうど、この間の教室での言い合いの時のように。


「余計なことかもしれないんだけど、気になるんですよね」


 ふたりはしん、と口を閉じて僕の話を聞いていた。おかげで僕が言葉を止めると、事務所は一瞬静まり返る。やっぱりお節介だったかな、と思って身を竦めた時、長瀬がこう言った。


「余計じゃないと思う。首を突っ込みすぎるのはあれだけど。気がつかないで変わっちゃってるのは、良くない」

「やっぱり、なんかまずいことになるんだ?」

「変わった後の形に引っ張られちゃうというか。三田村くんも飛び出してっちゃったでしょ。そっちの方がいいやって気持ちになっちゃったり、考え方とかも影響されたりする」

「それならまだいい」


 呉さんが引き取る。


「今回はまあ、人間だしな。男女の差ってのがどの程度なのかは知らんが、猫になるよりはマシだ」


 遠回しに僕を攻撃するのはやめてほしい。


「問題は、元に戻れなくなる場合があるってことだ。気づかないで変わっていたり、そっちになりたいと強く思いすぎたりするとまずいな」

「……詳しいんですね」


 少し気になって呟くが、長瀬がにこりと笑ってそれきり何も言わなかったので、僕の疑問は宙に浮いた。


 それにしても、元に戻れなくなる、というのは確かに大変だと思う。家族や周りの人間も、あの女の子が伴だと受け入れるのはとても難しいことだ。それに、万が一いずれ後悔しても、もう遅いとしたら。


 あれ?


「もしかして、僕もあの時わりと危なかった?」

「危なかったよ! だから必死で探したのに」


 長瀬がむくれた顔をする。僕は何度目になるかわからない感謝の言葉を送った。


「……止めてくれて、ありがとう」


 そう、僕の場合はそれで良かった。少しだけ前に進んで、それで最悪は脱することができたのだから。


「でももし、後悔なんかしないからずっとこのままでいる!って言われたらどうすればいいのかな」


 人生を賭けても構わないほどの選択を相手が選んだ時、僕がしてやれることというのは、なんだろう。


「にしても、リスクは伝えねえとまずいだろうが」


 呉さんは髭を剃り忘れた感じの顎をざらざらとさする。


「その後はそいつの選択だよ。まあ、浮ついた状態になってるだろうから冷静かどうかは怪しいがな」

「……三田村くんはさ」


 柿ピーの最後のひとつを口に放り込んで、長瀬夜子は歌うように言う。


「わりと淡々としてるイメージがあったんだけど。そうでもないね」


 友達思いなんだ、と言われた。そうなのだろうか。僕は今の動機が純粋な心配なのか、それとも品のない好奇心なのかよくわからず、途方にくれて心臓に手を置いた。




 二日が経った。僕は伴に「お前は女の子になりたい人なの?」とかそういう不躾な疑問をぶつけることができず、なんとなくひとりで気まずい思いを噛み締めながら過ごしていた。逆に伴の方から、三田村なんか悩んでる?なんて心配をされたりして、そのせいでまた落ち込んだ。伴礼央、お前はどうしようもないいい奴だよ、幸せになってくれ、と思う。


 幸せになるためには、でも、やっぱりどうにか話をしないといけない。


 少しばかりどんよりした心は、僕を夜の散歩へと駆り立てた。早めの夕飯後の七時半。ちょっと友達に呼び出された、とか言い訳をして僕は外へ出る。しばらく徘徊しているうちに、気がついたら僕はまた黒猫の姿になって四本の脚で軽やかに歩き出していた。


 風のない夜で、空には薄く雲がかかっていた。ぼやけた半分くらいの月が柔らかな光を放つ。身体が小さくなると悩みも薄くなるのか、とにかく明日ちゃんと何か話そう、と思った。駅から少し離れた商店街へとなんとなく向かう。昔はもっと店があったらしいが、今はシャッターとチェーン店が半分くらいを占めている、そんなところだ。小さい古本屋ではカードゲームを扱っていて、そのせいで若い客は意外といる。僕は今は猫だから、戻らなければあまり関係はないけど。


 その古本屋のドアを開けて、ひとりの女の子が外へと出てきた。伴の、あの女子の方の姿だった。


 何か買ったらしい袋を提げて、彼女?は僕の方へと歩いてくる。そしてふと下を向いて笑顔になった。


「猫だ」


 猫ー、黒いからお前は中華鍋だなー、と、能天気なかわいい女子の声を上げ、伴はしゃがんで指を僕に向けて振る。僕はなんだか腹が立ってきた。猫の振りをしてつれなく消えるのも、変に媚びを売ってじゃれるのも嫌だった。だって、お前のせいなんだぞ、これは。僕はそう言いたかった。だから、言った。


「何はしゃいでるんだよ、伴。そんな格好でさ」


 丸いおっとりした感じの目がきょとんと不思議そうに見開かれた。それはそうだろう。猫がいきなり知り合いみたいに話しかけてきたら。しかもその猫が目の前でクラスの友達の姿に変わったら。驚かないはずがない。


「……三田村? え?」


 しゃがんだ人間同士、目と目が合う。そして、伴は自分の足元を見下ろす。膝が覗いたセーラー服のスカート姿を。


「え、え、え?」


 奴は狼狽した顔で、見る間にまたいつもの男の姿に戻ってしまった。ああ、やっぱり気がついてなかった、と僕は小さくため息をついた。

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