第5話 魔法はどうやらあるらしい
ビルを出て、スクランブル交差点を渡って、ずんずん歩いた。振り返ると、
伴の話を聞いた日。帰ろうとする僕を呉さんが呼び止めた。事務所のプリンターからは一枚の地図が出てくる。インコはばさばさと羽を広げてピーちゃんピーちゃんと喋り出し、呉さんはうるせえぞピー助、と声をかけていた。
(
呉さんはそれしか言わなかったので、何の店だかはわからずに長瀬とふたりで調べた。上手くいくかどうかはわからない。でも、やってみる価値はあると思った。
人がすごく好きなもの、やりたいことをなんでもかんでも諦めなきゃいけない、そういう場面を見ているだけなのはなんとも嫌だった。
その店は表に比べれば静かな通りの地下にある。黒いスチールの手すりのある階段を降りて、ドアも黒いスタイリッシュな感じのやつだ。するりとした字体の看板は、降りる途中の壁に飾られている。
「何? ここ」
僕は指で入口を示した。ドアの前には少しスペースがあって、首のないマネキンがワインレッドの首にリボンを飾ったシャツと、黒のパンツと巻きスカートが合体したような変わった服を着て、誘うようにポーズを取っていた。
伴はそのディスプレイをしげしげと眺める。男のマネキンだった。
ドアを押し開けて、伴はゆっくり店内に入っていく。僕らも続く。レジのところにいた店員は、穏やかにいらっしゃいませ、と笑うだけで話しかけては来なかった。細身の、柔らかな雰囲気のやっぱり男性だ。店の色彩に合わせたのか、黒い上下を着ている。
照明は少し落ち着いていたが、暗くはない。壁は黒。ところどころに燭台とか、時計とか昔のヨーロッパ風のインテリアが飾られている。そして、ハンガーラックや棚にはたくさんの、色とりどりの服が陳列されていた。
伴はいつの間にかまた変な柄シャツの男の姿に戻っていて、棚にあった一枚のシャツを広げる。ふわ、と落ち着いたピンクの地に散りばめられた小花柄が舞った。模様は少し、さっきまでのワンピースと似ていた。リボンとかフリルとかはついてはいないが、なんとなく袖口がふわっとしていたり、凝った仕立ての服だった。
それほど広い店ではない。さっきのビルの中の店舗よりは少し大きいというくらいだ。でも、さっき僕と長瀬はあちこちを見て回った。これまでだったら、変な店って思って終わりだったと思う。でも、今やここには僕にはかからない魔法がぎゅうぎゅうに詰められているのが感じられた。伴に効けばいいと、心からそう思った。
花柄のシャツがあった。貴族か何かみたいなフリルのついたカットソーがあった。ふわっとしたニットがあった。黒猫のシルエットをあしらったTシャツなんかは僕でも着られそうで、ちょっと欲しくなった。リボンはこっそり変わったアクセントみたいに飾られているものもあったし、堂々と主役になっているものもあった。当たり前のパンツもあれば、丈が様々なスカートもあった。ガラス棚にはアクセサリーも置いてある。
これ全部男物なんですか、と下見の時僕は勇気を出して聞いてみた。ユニセックスでサイズ展開しております、と店員は親切に答えてくれた。じゃあ私も着れるんだ、と長瀬は少し興味を持っていた。
さっきのワンピースみたいに甘々ではなかったけど、僕らの普段着よりはよほど装飾的で、かわいい、と言っても差し支えないものだった。
「伴くん」
長瀬夜子がそっと彼の横に立つ。
「私、ちょっと気になってずっと考えてたの。あのね、『女の子』と『かわいい物が好き』ってイコールじゃないと思ったんだ」
「『男』と『頼り甲斐があってかっこいい』もそうだよな」
僕が続けると、伴は交互に僕らの顔を見た。
「末明さんが言ってた『妥協しろ』って、多分諦めろってことじゃないよ。なるたけ現実的に幸せになろうってことだよ」
僕は伴の手の中で持て余されていた小花柄のシャツを取って、肩に当ててやった。少し派手だが、病気のスイカよりはよっぽど格好が良かった。サイズも大丈夫そうだ。
「似合う」
思ったことを思った通り言ったら僕よりも上の方にある顔が、くしゃっと歪んだ。
「俺、こういうの着ていいの?」
「伴が好きなら、もちろん」
僕は即答する。長瀬も頷く。さっきのあのワンピースは死装束なんかじゃなくて、門出の晴れ着になればいいと思った。おかしいと言う奴がもしいたとしても、僕らはこいつの隣を歩いてせいぜい賑やかにしてやるのだ。
そっかあ、と伴は鏡を覗き込んでへにゃへにゃ、とろけそうな感じの笑みを浮かべる。目は少し濡れていた。
「うわ、三田村、これすげえ高い。五桁する」
不意に彼が声を潜めて僕に囁いた。値札には確かに、量販店の三千円くらいのカットソーに慣れた僕らには暴力的な数字が並んでいた。僕は少し焦って伴の顔を見上げる。
「バイト、増やさないとなあ」
でも、奴は心底嬉しそうに大きく笑った。もう大丈夫だと僕にはわかった。いつの間にか床には転々と、小さな女物の服が転がっていた。
その後も、伴は時々また女の子の姿になったり、ちょっと不安定な状態が続いた。学校に持ってくる小物が少しファンシーになって、周りが不思議そうな目で見てきたりもした。
「でも、だいぶ楽になった気がするよ」
教室では、僕と伴と長瀬の三人で昼を一緒に食べることが増えた。前髪を軽くピンで留めた伴は、弁当の海苔ご飯をもぐもぐ食べながら言う。
「自分で選べるってわかったから。ありがとな。ふたりと、呉さんのおかげ」
「千五百円分の価値あった? ならいいんだけど」
長瀬は澄まし顔で購買のパンを食べている。男女混合のグループというのは少し珍しいし、彼女に寄り付く女子はまだいない。まあでも、それがなんだと思う。僕は伴と長瀬の友達だ。男とか女とかは、あんまり気にしないことにする。僕だって猫だからね。
「正直に言うとさ。あそこの服がほんとにベストの好みだったわけじゃないよ」
でも、だから良かった、見せてくれたことが嬉しかった、とも言う。足りないところはこれから探して埋めていくのだそうだ。そのうち、自作なんか始めそうなくらいの勢いだった。
伴礼央は、ありがとうをちゃんと言える奴だ。僕はこいつのそこをわりと気に入っている。
やがて伴はアルバイトに精を出し始める。そうでない日の放課後の付き合いは前より良くなった。多分、どこかの時点で彼女とは距離を置いたのだと思う。ちゃんと道を変える旨と、あの日言えなかった気持ちを伝えられたろうか。
呉さんの事務所のインコのピーちゃんはあの後すぐに引き取られたという。長瀬は体育の時に髪を結ぶゴムを和柄の飾り付きのものに変えた。僕は休日は相変わらずグレーのシャツを着て、ただ中のTシャツはせめてカラフルにするよう試行錯誤している。服は難しい。
そういえば伴はその後、意味もなく通いすぎて『ニュクス』の店員と顔見知りになったらしい。待ち合わせをした時は、顔立ちによく似合う華やかな上着で僕に手を振る。
僕の友人の鞄には、のんびりした顔つきの丸い羊のぬいぐるみが揺れている。ふわふわのワンピースの女の子だろうが、百八十センチの花柄野郎だろうが、それは同じで、それが全てだ。伴礼央に妹はいないし、もう彼はそんな嘘はつかない。
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