夜猫リフレイン
第1話 間違えてしまったかもしれない
これは、僕の失敗の話だ。だから、正直なところ続きを語るのは気が重い。
三月。来ることがわかっていたはずの分かれ道を前に、僕はまだ情けなくも右往左往していた。
期末試験も終わった土曜日。だいぶ散らかった部屋を軽く片付けていたら、机の引き出しに一枚の白いカードを見つけた。見てみるとそれは知らない名前が印刷されたどこかの会社の名刺で、なんだっけ、こんなの貰ったっけ、とくるくる何度か裏返してみた。カタカナ名前の会社で、営業部とか書いてある。見ているうちにああ、と思い当たることがあった。
正月の三日、初詣に行った時に会った小さな迷子、ちーちゃんの父親が身分証明のためにくれた名刺だ。思い出した。とはいえ、別に使うこともないよな、と思う。ちょっと調べたらIT関係の企業で、少なくとも今すぐ高校生に縁のある会社ではない。ただ、営業部かあ、うちの父親もメーカーの営業だな、とそれだけ思い出していた。
僕はまた少し焦りを感じていた。三月。来週には答案が返されて、三年の卒業式があって、そしたら修了式もじきだ。今年度がもうすぐ終わってしまう。とりあえず書いた進路から先を、僕は選びきれていなかった。
夕飯に呼ばれたのでダイニングに移動した。既に両親は揃って食卓についている。唐揚げがいい色に揚がっていて、さっそく熱々のうちにいただこう、と箸を取った。
「あのさ、親父はずっと営業の仕事やってるんだよね」
暖色の明かりの下、味のしっかりついた鶏肉を白米と一緒に頬張る。よく噛んで飲み込んでから、僕は顔がよく似ていると言われる父親にそんなことを話しかけた。中三くらいの時は親と会話するのが嫌で黙りこくっていたものだったが、今はまあ、背中がむずがゆいくらいの気持ちで話すことはできる。
「ああ、そうだな」
「飽きないもの?」
「飽きたからって別のことをやりますとはいかんだろう」
そういうものだよなあ、仕事って、と思う。ものによるのかもしれないが。
「……大学、文学部だったっけ」
「ああ、独文専攻」
「それって、営業の仕事と関係ある?」
よくわからない部品をあちこちに売ることと、ドイツ語でなんだかゴリゴリしたイメージの文章を読むこととは、どうも結びつかない。
「ほとんどないな」
「だよね。なんでまたそこの学部に入ったの」
「入学した時は仕事のことなんか考えてなかったからなあ」
僕は瞬きをする。
「ああ、まあ、そっか」
「もちろん、こうと決めて学部を決めた奴もたくさんいたし、決まってるならそれに越したことはないんだろうけどな。……真也が仕事の方から決めようとしてるみたいに」
音楽関係の仕事、というのが僕の進路調査の一旦の答えだった。親の勧めもあって大学は出ておいた方がいいと思っているが、音大に進むとかはあまり考えていない。そうすると、じゃあなんだ、どこに行けばいい、という悩みがまた湧き出してくるわけだ。僕は豆腐入りの味噌汁を軽く啜った。
「俺が独文を専攻したのはな。まあ……簡単に言うと格好良かったから、なんだよな」
「格好良かったあ?」
「格好良いだろう、ゲーテだぞ。とにかく、選んだ時は機械部品を売る仕事に就くなんて思いもしなかったし、ちょっと原語で暗唱ができたからって得意先に受けたこともないな。でも、好きでやりたいことを勉強するのはなかなか楽しかったよ」
父親は箸を置いてこう言った。
「『なりたいもの』は大事だが、『やりたいこと』から進めてみるのもいいんじゃないのか?」
それから、父親はご飯のおかわりをつぎに立ってしまった。ぼんやりとその言葉を頭の中で繰り返していたら、母親に早く食べなさい、せっかく揚げたてなんだから、と注意を受けた。
「『やりたいこと』ねえ」
長瀬夜子は少し首を傾げる。僕らは購買でパンを買い、また教室に戻るために廊下を歩いていた。まだ肌寒いが、一応気温は少しずつ上がってきているようだった。校舎の外では梅の木が満開を迎えている。今週は授業時間が短縮される、ちょっとお得な期間だった。
「どう違うのか、ちょっとよくわからない」
「僕もわからない。音楽の仕事をやりたい、とはまたちょっと違うんだよなって思って。また聞いてみようかな」
「お父さん、いい人だね」
僕は口をつぐむ。長瀬は両親が離婚していて、今は『お母さんの彼氏』の呉さんと、そして観葉植物になってしまった母親という妙な構成で暮らしている。呉さんは長瀬とは仲がいいし、保護者としていろいろと世話を焼いているようだが、それでも長瀬は彼を父親とは思わない、と以前語っていた。
要するに、複雑なのだ。
「長瀬は前、適当に書いたって言ってたけど。結局なんか決めたの?」
「私は……」
長瀬は二組の教室の前で立ち止まる。そして僕にこう告げた。
「私は、
え、と僕は目を瞬かせた。
就職をするかも、というのはわかる。進学組が多い学校ではあるが、それでも家庭の事情とか、自分の希望とかで仕事に就く生徒は普通にいる。ひとり暮らしをするというのも、まあ飲み込むことはできた。長瀬は状況が状況だから、家を出たがることもあるだろう。でも、遠くに行くって?
僕は彼女に質問をしようとして、どう言えばいいかパズルのように頭の中で順番を考えて組み立てた。でも、どうしても出っ張ったおかしな形になるのだ。迷っているその時、教室の中から誰かの声がした。
「えーっ、絶対付き合ってるって。仲いいじゃん」
「そうなの? よく一緒にいるけどさ」
「見た目ちょっとギャップあるけどね」
「誰と誰の話?」
「長瀬と三田村」
あいつら、何話してんだ、と思った。男子と女子が入り混じって、僕らの噂をしているようだった。伴や細野は教室にいなかったのだろう。特にその会話を止める者はいなかった。
何言ってんだろうね、とちょっとヘラヘラした顔を装って僕はごまかそうとした。何をかって、僕の下心とか、噂をされてちょっと嬉しいと思ってしまった気持ちとかをだ。長瀬は恋愛が嫌いで、絶対に寄せ付けない子だからだ。ヘラヘラしたまま僕は、彼女の白い綺麗な顔を見た。
長瀬夜子は、凍りついたような、怒っているような、誰かを罰したいと心から思っているような表情で、教室のドアをじっと見つめていた。
「付き合ってなくてもさ、三田村は絶対好きじゃん」
「めっちゃ見てる」
「長瀬もでも、あいつと話すようになってから元気になったよな」
「いい話」
「付き合っちゃえばいいのにー」
彼女は僕の視線に気がつくと、ハッとしたようにゆっくり雰囲気を和らげた。
「バカみたいだね。三田村くんに限ってそんなこと、あるわけないのに」
にこりと笑う、その顔が、その言葉が凶器だった。いろいろあって棚上げにしていた感情が、どっと雪崩のように僕に降り注いだ。僕と長瀬は友達で、そのはずで、ずっとそのつもりだったのに。
僕は答えることができなかった。気持ちに蓋をして、嘘をついて、そうだよなー、僕ら無害な仲良しだもんなー、なんてのん気な返事をすることができなかった。
教室の中の無責任な奴らが語るまさにそのような意味で、僕は長瀬夜子のことが心から好きだったからだ。
狼狽えて半分口を開けた僕は、きっとおかしな顔をしていたことだろう。長瀬はすぐに異変に気づいた。形の良い眉が顰められた。黒い目が物言いたげに揺れた。それだけで僕の心臓は締めつけられる。
長瀬夜子は口を閉じると何も言わず、そのまま教室のドアをがらりと大きく開けた。中の奴らは面白そうな顔をしたまま噂話を止める。僕はしばらく廊下に立ったまま、遠ざかる彼女の後ろ姿を見つめていた。
その日、結局僕と長瀬夜子はずっと口を利かなかった。誰かが化けたわけでもない長瀬を、僕は僕自身の態度で傷つけてしまったのだ。
これは、僕の失敗の話だ。
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