第4話 未来は悪くもないらしい

 午後十時半を回って帰宅した僕は、親にまた厳重に注意をされた。僕はそれを受け流そうとして、呉さんの言葉を思い出す。そして、白紙のままの進路調査用紙を部屋から持ってきた。ただの紙なのに、長期休み前の鞄みたいにずっしりと重い気持ちがした。


 僕と両親はしばらく話をした。少し叱られた。僕は未来に期待が持てないんです、なんてことは言わなかったし、猫になっていた話なんてもちろんしなかった。でも、親は少なくとも、そんなものは知るか、ひとりで考えてろ、なんて顔には全くならなかった。


 学校では埋もれた普通の生徒でも、この人たちにとって僕はたったひとりの子供なのかもしれない、なんてことを思った。長瀬夜子が呉さんの前では当たり前に喋ったり、カップ麺を食べたりするのと同じようにだ。


 それはきっと何よりもありがたいことなのだと思う。親と険悪な友人なんていくらでもいる。ありがたみがピンと来ないということがありがたい、そういう種類の僥倖だと思った。


 僕の進路調査用紙は、一時間喋ってようやく埋まる気配を見せた。




「うん、これくらいでいいんだよ。何もなかったら相談にも乗れないだろう」


 次の日の昼休み、戸張先生も思ったよりも鷹揚だった。用紙には遠慮がちな文字で「音楽関係の仕事」「上記に関係していそうな大学」とだけ書いた。本当に僕の希望なのかはまだわからないけど、目鼻はついた格好だ。


「全然、具体的にはわからないんです。別に自分で音楽をやりたいとかじゃないんですけど」


「そこをこれから決めてくんだろう。まだ二年だ。三田村の成績なら大学を勧めるが、その先に目標があるのはいいことだな」


 はあ、と思いながら聞いていると、先生は眼鏡を持ち上げ、プロデューサーだの音楽事務所だのから始まって、記者だとかDJだとか、ライブハウスの経営だとか、なんとか法人だとか、音楽配信業者だとか、僕が思いもよらなかったような仕事をわっと並べ立て出した。


「単に聴くのが好きなら、店か何かを持って好みのBGMを流すって方法もある。それなら経済学部か法学部にでも行けば先にいろいろ勉強ができるな」


「……いろいろあるんですね」


 僕は、突然目の前に拓けた選択肢の数々に目が眩みそうだった。そこからひとつ選び取る、というのが今度は難問になりそうだ。


「白紙じゃなくなったかな」


「少しは。あの、なんかびっくりしました。ライブハウスなんて言われると思わなかったんで」


「大人だってロックを聴かないわけじゃないんだぞ」


 在学中はあんまり通うなよ、と先生は笑って、それで指導はおしまいになった。僕は少し軽くなった肩を回しながら、先生のお勧めを聞けばよかったかな、なんて思った。




 放課後、僕は意を決して長瀬夜子に話しかけた。相変わらずカバーをかけた文庫本を読んでいた彼女は、ぱっと目を上げる。昨日の晩の顔よりはなんとなく生気が抜けていたけど、ほんの少し嬉しそうな色が生まれたのを感じた。


 周りの生徒たちはあら珍しい、なんて感じの顔をしていたが、それほど注目もされない。それでいいと思う。僕らのことは放っておいてもらおう。


「昨日はありがとう。いろいろ動画とか探してみたけど、聴く?」


「聴く」


 彼女は頷く。本はしおりを挟まれ、机の上に置かれた。僕はイヤホンを取り出す。と、その前に。


「そうだ、長瀬さん。いっつもなんか読んでるけど、それ、何の本?」


 長瀬夜子はぱっと目を輝かせて、そうして少し照れたような表情を白い顔に浮かべた。


 あのね、ファンタジーでね。中国っぽい国が舞台の……。彼女は語り出す。僕は耳を傾ける。帰り支度の気配の中、ふたりの他愛ない会話は続いた。




 それから、僕が猫になる謎の現象が終わったかというと、実はそんなこともない。夜は相変わらず夜で、そこに溶けてしまいたくなる時というのはいつでもある。そんな時僕はそっと家を抜け出し、黒猫の姿であちこちを歩き回るのだ。


 寂しくなってきたら、川沿いの土手を歩いて駅前に近づく。上手くすれば、いつかの夜のように長瀬夜子がふらふらと歩いているのに巡り会えたりする。呉探偵事務所にまた遊びに行ったり、たまに邪魔だと怒られる。


 僕らは時々孤独にやられて、おかしなことをしたり、おかしなことになったりもする。けど、それは時には悪いことだけではないのかもしれない。這うような低い低い視線からようやく見えるものだって、きっとある。


 僕にとってそれは、長瀬夜子の横顔だ。カップ麺を啜って美味しそうに笑う彼女の口元を、僕は美しいと思う。

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