第28話 私、馬鹿みたい
「……彩花……」
彼女の名前を呼んで、自分の全身が強張るのを感じた。
今風のオシャレな服装、ばっちりメイクされた顔、パーマを当てた茶髪。彼女は私が大学に行っていたときと全く変わらない出で立ちをしていた。
でもそれが私には怖かった。外見が変わっていない彼女の心まで変わっていないとは言えない。
彩花は友達だ。でも、それは学校という場所を共有していたから成り立っていたような関係で、私が学校に行かなくなってから、その関係はだんだんと薄れているような気がしていた。
そして、私はついこの前、彼女の『カラオケに行こう』という誘いを無視した。何の反応も返さなかった。
それが、彼女にどう思われているのか、今更本人に会って怖くなった。
どう思われているのか分からない。
もし嫌われてしまっていたら。
それを真正面から突き付けられるのが怖い。
そう思うと、私は俯いてしまった。彼女の顔を見ることができない。
今すぐにでもこの場を去りたかった。本を棚に返して。
学校になんて来なければよかった。
そう考えた瞬間、私は何故か泣きそうになった。
……………違う。
私は、ここに戦うために来たんだ。
自分と。自分が向き合わなければならないものと。
優さんのために。
優さんと一緒に生きるために。
後悔するのは、違う。
私は顔を上げた。
そして棚の合間をぬって彩花のほうへ進む。
彼女の顔を真正面から見た。彩花は何を考えているか分からないような顔で私を見つめ返してきた。
私はそんな彼女に頭を下げた。
「ごめん。彩花。この前のLINEに何の返しもしなくて」
言って喉がからからに乾いていたことを知る。
謝ることが正解なのかどうかは分からない。
今更かもしれない。ただの自分の自己満足かもしれない。
でも、引っ掛かったままにはしたくない。
このもやもやの正体は――――後悔だ。
あの時返事をしていればよかった。
そうすれば嫌われずに済んでいたかもしれない。
うやむやにすることだってできる。
何もなかったかのように話しかけて表面だけの会話で済ませることも。
でも、それだけは絶対向き合ってるって言わない。
どう返ってくるのか怖い。もう、彼女との関係は壊れてしまうかもしれない。
それでも、受け止めるしかない。
ぐっと奥歯を噛みしめたとき、頭上から降ってきたのは罵倒でも、拒絶でもなかった。
「え、そんなこと気にしてたの?」
彩花の声はあっけらかんとしていた。拍子が抜けるほどに。
顔を上げると、不思議そうに私を見てくる彩花がいた。
「ていうか、凛。大丈夫なの?」
「え……」
私が問い返したと捉えたのか、彩花は眉をひそめながら、切れ長の瞳を細めた。
「LINEに反応しなかったのは別に怒ってないんだけど、あんたがカラオケに反応しないって滅多にないことだし、何かあったのかな、って。学校でも見ないし」
「……心配してくれてたの……?」
私が呆然として尋ねると、彩花は、はあ?とすっとんきょうな声をあげた。
「当たり前でしょ。こんだけ姿見なかったら心配するわ」
何言ってんの、と彩花は腕を組んだ。
「で、大丈夫なの? 学校来れたってことは、大丈夫になった?」
問いかけてくる彼女に、私は覚めやらぬ思いで「うん」と返した。大丈夫なのかも分からないのに、口がそう言葉をついていた。
すると、彩花は綺麗な笑顔を見せて、
「なら良し」
と快活に言ってのけた。そして、何かに気付いたように自分の腕時計をちらりと見やると、やば、と焦ったような顔をした。
「次、授業あるのよ。凜は? 空きコマ?」
「……あ、まだ……」
私が言葉を濁すと、彩花は何かを察したのか、手を伸ばして私の頭をわしわしと撫でた。
「まあ、無理はしないこと」
じゃね、と手を振って彼女は図書館を去っていった。
去り際の彼女の笑顔がくっきりと頭に残った。
彼女の姿が見えなくなった途端、全身の力が抜けた。
……なんだ。
放心状態だった心が溶かされていくようだった。
……なんだ。
こんなに気に病む必要なんかなかったんだ。
人が怖くなって、信用できなくなって、何もかもを恐れて。
自分を大切に思ってくれている人でさえ勘ぐって。疑って。
……私、馬鹿みたいだ。
ふふっと笑みがこぼれた。ほっとしたような、力が抜けて出た笑いだった。
ねえ、優さん。
この世界は、私たちが思ってるよりも優しいのかもしれない。
何かに傷ついて、絶望しそうになっても。
誰かにとっては些細なことが、誰かを救うことだってあるんだ。
曇っていた目が、見えるようになることもあるんだ。
生き返ったら、優さんの目でもう一度この世界を見てほしい。
私も一緒に見るから。
優さんがこの大学に通うことになったらいいな。
そんなことがふと脳裏をよぎった。そして、その思いがじんわりと広がっていく。
いいな。そうなったらいいな。
この大学に優さんがいるところを想像しながら、私は写真集を抱えてカウンターへと歩きだした。
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