第19話 一緒に帰りたい
『凜さん。君は、元の世界に帰りたい?』
きっと、隣に実体があれば、首を傾げて私を覗き込んでいたに違いないと思うほど、優しくて、気遣いのある声。
私たちは、お互いに【独りになりたい】と願った。その思いは共鳴してしまうほど似通っていて。
でも、その優さんの意識は今、【いなくなりたい】と思って自殺した人たちの思いに引っ張られている。
そして、いなくなってしまう。
私は、優さんの苦しさを分かってあげられない。
【独りになりたい】という気持ちが同じでも、それでも優さんの全部を分かってあげることはできない。
無力なのはわかってる。
でも。
「私は、優さんと一緒に帰りたい」
私は叫んだ。消えかけていく優さんに届くように。
諦められない。
私の心が叫ぶ。全身がそう言っていた。
私の言葉に気圧されたように、優さんは押し黙った。
そして躊躇うように、再び言う。
『凜さん。だから、僕は一緒に行けない』
分かってる。
優さんがもう元の世界には帰りたくないことも。
帰っても辛い思いをするだろうことも。
それでも。
「優さんが生きることを諦めても、私は諦めたくない」
あなたの全てを分かってあげられなくても。
あなたにはなれなくても。
「……勝手かもしれない。私のただの自己満足かもしれない。……私は、優さんの病気のことはほとんど知らないし、優さんがどれだけ苦しいのかも分かってあげられないよ。……それでも、私は、優さんに生きていてほしい」
優さんの息が止まるのが分かった。
本当に勝手かもしれない。私の思いは。
でも、心からの言葉だ。
だから、お願い。聞いてほしい。
「このまま優さんが死んで、この世界の一部になったら、私はずっとあなたを思う。カラオケに行っても、優さんに歌ってほしかったって思うし、大学に復帰できても、講義を受けても、優さんが隣に居たらって思うよ」
私は傍らにあった絵を広げて、同じ光景を共有しているはずの優さんに見せながら言う。
「絵を描くたびに、優さんならどんな絵を描くんだろうって思うよ」
絵にぽとりと雫が一滴落ちた。夕日と海がオレンジ色に染まっていく絵。
私たち二人を繋いだ絵。
「そのたびにきっと私は泣く。……どうやっても会えない優さんのことを考えて泣くよ」
ぱたぱたと落ちていく涙。
受け止める夕日と海の絵。
これも、この世界の一部だなんて、言わせない。
「優さんが、ずっと独りなんだ、って思ったら、私は元の世界に戻っても、ずっと【この世界】にとらわれ続ける。さみしい思いをし続けている優さんを思わずにはいられない」
言葉を紡ぐたびに息が詰まる。
ここで泣き喚いては駄目だ。
私は、優さんに、自分の想いをちゃんと伝えるんだ。
「私は本当に独りになってみて、【この世界】の寂しさを思い知ったよ。喋る相手がいないこと。自分の心を受け止めてくれる相手がいないこと。歌を歌っても、聞いてくれる人がいないこと。絵を描いても見てくれる人がいないこと。……そのどれも、耐えられなかった」
人の喋る声が怖くても、誰かに会うのが怖くても、私は独りでは生きていけないんだって、分かった。
「……【この世界】で唯一、あなたが私を支えてくれた。話を聞いてくれた。『大変だったね』って言ってくれた。……私の傷を癒してくれた。あなたの優しさを、存在を知ってしまったから。もう、あなたがいないなんて耐えられない」
誰よりも優しい人。私の抱えていた傷を癒してくれた人。受け止めてくれた人。
もう、他人とは呼べない人。
『……それは、今だから言えるんだよ。月日が経てば、僕のことも、【この世界】のことも、きっと思い出として薄れて、……忘れていくんだ』
優さんが寂しそうな声で呟いた。
自分を許せないから。自分を愛せないから。
優さんはそう言うしかないんだ。
彼の孤独がそう言わせてるんだ。
本当に、私たちはよく似ている。
愛してほしいと願いながら。
愛されることを諦めてしまったところが。
でも、本当に忘れていいだなんて、独りになっていいなんて、思わないで。
ねえ、優さん。あのね。【独りになりたい】と思っていた私でも。本当は愛されたいと思っていた私でも。
「無理だよ」
私はその言葉を言って笑う。
頬が動いて、涙が一粒落ちた。
「優さんが大切だから。……優さんは私にとって必要な人だから」
愛されたいと思っていた私でも、愛したいと思う人ができたんだよ。
それが、あなたなんだよ。
【独りになりたい】と思うのは、傷つくのが怖いから。
【いなくなりたい】と思うのは、誰にも必要とされないのが寂しいから。
でも、私はあなたを【独り】にもしたくないし、【いなくなって】もほしくないの。
そう思うほど、優さんが大切なんだよ。
「また、優さんと一緒にカラオケに行きたい。今度は優さんが歌ってるところも聞いてみたい。一緒に大学生活を送りたい。一緒に授業を受けて、あの教授厳しいね、とか言いあって。それで、優さんの描いた絵を見てみたい。あなたがどんな絵を描くのか見てみたい」
そして何より、
「優さんが生き返ったら、一緒に話がしたい」
他愛ない話でも、相手があなたなら何でもいい。
優さんは、私にとってかけがえのない人だから。
そう思った時、一筋の涙が流れた。
それは、私の涙ではなく、彼が流した涙なのだと悟った。
優さんの心が、泣いてるんだ。
優さんは、掠れた声で息を吐きだした。
『……顔も分からないのに』
「うん」
『……昨日会ったばかり、なのに』
「それでも」
『……向こうに戻れば、僕は今の僕じゃなくなる。君に迷惑をかけるかもしれないんだよ』
さっきの脳の話だ。
彼は元の世界に戻れば、自分の体と、脳と付き合わなければならない。
そう分かっていても。
「本当の優さんを知っているから。あなたが私の心を癒してくれたから。優さんがかける迷惑なら、迷惑じゃない。今度は、私があなたの力になりたい」
たとえ、めちゃくちゃな行動をとったとしても、支離滅裂でも。
その奥にある優しさを知っていれば、私にはそれで十分だ。
だから。
【寂しい世界】の一部にならないで。
独りにならないで。
独りで苦しまないで。
閉じこもらないで。
もう、二度と会えなくなる場所に行かないで。
あなたが私の心を癒してくれたように、私もあなたに寄り添いたい。
涙がこぼれると同時に、
思いが溢れる。
「私は、あなたのいる世界に帰りたい」
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