第18話 楽になりたかった
『僕の体は今、ICUにある。僕はまだ、生死を彷徨っている状態だ』
優さんのその言葉に、一縷の希望が見いだせる。
まだ、彼が生死を彷徨っている状態なら。
また魂が体に戻れたら。
それなら、彼は生き返るかもしれない。
「さっき死んだって言ってたけど、まだ生き返る可能性はあるってことですか?」
私が一縷の願いを込めて投げかける。
でも、優さんは諦めたように投げやりな声で言った。
『………本当に微量だよ。僕の意識は、ほとんどこの世界にとらわれ始めている。もう一度【この世界】に戻ってきたのも、容態が悪化したからだ。また回復できるとは思えない』
「それでも、帰れるかもしれないんでしょう?」
私が念を押すように尋ねると。優さんは呻くように「それでも」と言った。
『僕は帰らない』
彼は拒絶した。
その短い言葉に私は胸を詰まらせた。
拒絶されたことよりも、彼の悲痛な声が、胸を引き裂いた。
そして追い打ちをかけるように。
『帰らないほうが良いんだ。【この世界】の皆と同じように僕も同化したほうがいい』
どうして。
私の言葉は声にならなかった。
私の口にできなかった言葉を汲んだのか、優さんは困ったように笑った。
乾いた、無気力な笑いだった。
『現実に戻ってしまったら、僕は今みたいに正常じゃいられなくなる』
淡々とした響きだったが、そう務めているようにも聞こえた。
『病気にかかった僕は、色んな幻聴や幻覚に苛まれるようになった。幻聴とは分かっていても、自分を否定してくる声になんて、平気じゃいられない。妄想が酷くなって、支離滅裂な行動に走るなんて日常茶飯事だったし、いつも僕は近くにいる人を困らせてばかりだった』
そんな、迷惑な存在であるくらいなら、いないほうがいい。
優さんはそう言った。
とても寂しい声だった。
優さんの淡々とした口調が剥がれ落ち、それは悲痛な叫びに変わっていく。
『統合失調症は脳の病気なんだ。今の僕はこうやって普通に話せるし、意識だって保てる。でも、もし元の体に戻ったら、またあの脳と付き合わなくちゃいけない。……めちゃくちゃで、迷惑な僕に戻らなきゃいけない』
もう、嫌なんだ。
何もかも。
『……行動だって入院生活で制限されてきた。めちゃくちゃな僕には当然の対処かもしれないけど。……でも、それまでも僕は縛られてきた。母には、友達とも遊びに行くことさえ禁止された。勉強を優先させるためだって。僕は黙々と勉強するしかなかった。……受験だって、理系じゃなくて文系に行きたかった。本当は、絵が描きたかった。でも母はそれも許してはくれなかった』
優さんの感情が雪崩れ込んでくる。
寂しくて、辛くて、やりきれなかった過去が。
優さんを蝕んでいた過去が。
だから、優さんはあんなに輝いていたんだ。
写真を選ぶとき、私が絵を描いているとき。
あの時私は感じていた。
優さんが、本当は、自分で絵を描きたがっていたこと。
それが、楽しいと分かっていながら、してはいけないと強いられるのはどれだけ苦痛なのか。
『だから、病院の階段を下りているときに思ったんだ。もう、終わりにしたいって。誰かを困らせる僕から。誰かに縛られる僕から。解放されたかった』
優さんは思い出すようにゆっくりと言葉を吐き出して、
『【いなくなりたい】って、【死にたい】って思った時に、僕は階段から落ちていた』
――――――楽になりたかった。
私は泣きそうになった。
【いなくなりたい】と思うほどに追い詰められた優さん。
【死にたい】と思うほど人生に絶望した優さん。
優さんは今、心から叫んでいるんだ。
これが、彼の苦しみなんだ。
優しさの奥に隠そうとした、大きな傷。
『……ごめん。凜さん、ごめん』
優さんの声が急にしおらしくなった。
勢いを失った彼の声は、昨日と同じ、撫でるように優しいものに変わっていた。
『僕は……君を泣かせてばかりだ』
言われて気づいた。
自分の頬に涙が流れていたことに。
気づいても止められなかった。
私がここで泣いて何になるだろう。
一番つらかったのは優さんだ。
そんな思いも声にならなくて、私はただ首を振ることしかできなかった。
雫が飛び散ってぱたぱたと床に落ちる。その様に、心はいっそう締め付けられた。
『やっぱり、こうやって僕は誰かを困らせてしまうんだ』
そう言った優さんに、違う、違う、と止まらない涙を零しながら喚く私。
そんな私に、彼は優しく呟いた。
『凜さん。君が羨ましかった。こんな訳のわからない世界でも、何かをしようと行動できる君が。誰かのために何かをしてあげられる君が。そんな優しい君が』
今までの全てを終わりにするかのような言葉だった。全身が震える。
嫌だ。
お願い。止めて。
優しい言葉なんかいらない。
私は。
『君がいたから、僕は最後に自分のしたいことができた。友達とカラオケに行ってみたかった。大学に行きたかった。そこで絵を描きたかった。でも、僕がしたかったことを、君が代わりにしてくれた。きっと、僕一人だったら、この世界じゃ何もする気になれなかった。ありがとう』
違う。そうじゃない。
今、ありがとう、と言わないで。
私はそう言おうとして。
そして、気づいた。
優さんの意識が、私の中で薄れてきている。
靄がかかったように、掴みづらくなってきている。
私は目を見開いた。目から涙がこぼれ落ちる。
優さんもそれに気づいたのか、寂しそうに笑った。
『【この世界】に引っ張られてるんだよ。「お前もこっちに来い」って呼ばれてる』
ぞっとした。
この世界が、優さんを連れて行こうとしている。
……私の意識の中から優さんが、消える。
『凜さん。君は【この世界】で唯一異質なんだ。だから、君を縛っている僕が、君から離れてこの世界と同化したら、君はもとの世界に帰れる』
霞んでいく中で、優さんの柔らかな声が木霊する。
彼は、カラオケで「上手だ」と言ってくれた時のように、優しい声で言った。
『凜さん。君は、元の世界に帰りたい?』
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