第22話 生きていて



 がたんがたんと電車が揺れながら街中を走る。

 通勤ラッシュの時刻を過ぎたからか、車内にいる人の姿はまばらだった。

 私は電車の入り口付近のステンレス製の手すりを掴みながら、過ぎ行く街並みを眺めていた。


 私は今、病院に向かっている。

 優さんが別れ際に教えてくれた場所。

 そこは、私の家の最寄り駅から二駅離れた市立病院だった。




 朝食を食べ終えてから、私はすぐに自分の部屋に戻って、Tシャツとジャージという姿から小綺麗な服に着替えた。



「ちょっと出かけてくる」


 

 鍋をおたまでかき回していた母に向かって言うと、母は目を丸くしながらその手を止めた。

 

 

「……大学に行くの?」



 母の声が自信なさげだったのは、私の服装が大学に行くときの服というよりは、正装に近かったからだろう。

 白いシャツにクリーム色のカーディガン、そして紺色のロングスカートというセットは、私が持っていた服の中でも一番小綺麗なもののチョイスだ。



「ううん。ちょっと病院に用事があって」



 母は、今日が私の二週間に一度の診察日ではないことを思い出したのか、更に不思議そうな顔をした。

 しかし、私をじっと見据えた後、



「気を付けていってらっしゃいね。今日はお父さんが出張から帰ってくる日だから、あんまり遅くならないで」



 という忠告だけをした。



「分かった。ありがとう」

 


 私はそう返した。ありがとうと言ったのは、母恋しさがあったからだろうか。

 




 電車が一駅目で止まり、私が立っている場所とは反対側のドアが開く。乗客がぞろぞろと乗り込んでくる。

 

 私の向かいに女子学生二人がやってきて、高い声で話はじめる。

 「まじむかつく」

 片方の女子の声が針のように響いた。


 私は思わず身構えてしまう。

 

 しかし、彼女はこちらには目も止めずに、「遠藤がさー」と続ける。



 人知れず息を吐き出す。

 幾度となく経験した気持ち。肩身の狭さ。押しつぶされそうな居心地の悪さ。


 変わっていない。

 【あの世界】から戻っても、私の人に反応する感覚はそのままだ。

 そんな簡単に変わるとは思っていなかったけど。



 ここには、私が怖くてやまなかった音が溢れている。


 私は手すりを握る手に力を込めて、そっと目を閉じる。


 暗闇の中で、車内のあらゆる音を、裸の耳が拾う。

 学生同士の喋り声。イヤホンから洩れた音楽。機械音のようなアナウンス。おじさんがする咳。電車がレールの上を走る音。



 そのどれもが、私の耳に入ってくる。



 私は今、外出するときには絶対に外せなかったイヤホンをしていない。

 外から拾う音を遮断するために、誤魔化すためにしていた、私の盾。

 私は自らそれを取り払った。

 

 今の私が、この環境をどう感じるのか。

 どう捉えるのか、知りたかった。



 聞こえる。

 自分ではない誰かが発する音が。


 これは、誰かが生きているからこそ存在しうる音だ。


 背筋は強張る。

 心臓はどくんどくんと音を立てて、私の体全体に響き渡る。


 

 それでも、【誰もいない世界】の静寂よりはずっといい。

 

 一人取り残されたような、あの寂しい世界よりはずっと。


 

 嫌われるのは怖い。

 中傷や悪口を言われるのも嫌だ。

 人からどう思われているかを気にするのは、私の体に刻まれた癖のようなもので。簡単には治らないのだろう。

 

 だけど、それだけじゃないって気づいたから。

 

 嫌われることもあるかもしれない。

 迷惑に思う人もいるかもしれない。


 でも私には、私を大切に思ってくれる人がいる。

 待っていてくれる人がいる。

 

 そう気づけたから。

 

 

 『待ってる』


 

 彼の私にくれた言葉。

 

 思い出す。

 彼の魂の温もりを。

 

 思い出すと同時に、胸の中がざわめいた。

 胸の奥で、絶対に出さないとしまっていた考えが顔を出す。

 思わずいけないと身構えても、隠し通すことはできなかった。

 その思考は無慈悲に一つの可能性を突き付ける。


 優さんが、この世界に戻っていなかったら。

 

 信じると決めた。必ず会うと約束した。

 でも、もう、手遅れだったのだとしたら。


 優さんが生き返っていなかったら。


 一度現れた思考は、波のように私の感情をさらっていく。

 

 約束は願いだ。

 そうあってほしいと、生き返ってほしいという願望。

 そこに確証は、ない。


 無意識に指が震える。その手を、不安と共に描き抱く。

 窓越しに過ぎゆく街並みを睨み付ける。

 トンネルに入り、暗闇が電車を覆う。

 そこには、今にも泣きそうな私の顔が映っていた。


 

 (独りにしないで)



 薄らいでいく意識の中で聞いたはずの声。

 その声が、目の前に広がる暗闇の中から聞こえた気がした。

 

 

 トンネルを抜け、光が車内に差し込んできた。

 

 それでも、私の頭の中にはさっきの声がこびりついている。


 電車が静かにスピードを緩めはじめ、ものの数秒で駅へと到着した。

 目の前のドアが開き、新鮮な風が入ってくる。

 

 私は誰かに押されるように駅のホームへ降りた。


 そんな私を迎えたのは、緊急時のアナウンスだった。

 


「ただいま、運転を見合わせております……」



 私が着いたのとは反対側のプラットホームで、そのアナウンスは繰りかえされた。

 人身事故が発生したとのアナウンスが。


 向かい側に立っている電車を待つ人たちの顔が歪んでいる。

 まじかよ。勘弁してくれよ。

 そう言いたげに、スマホを覗き込んで。時計を確認して。


 彼らにとっては全く眼中にないのだろう。

 【人身事故が起きた】ということが何を意味するのか。


 

 今までの私だったら考えもしなかった。

 まさに目の前の人たちのように、暇つぶしにスマホをいじっていただけだっただろう。

 

 でも、今の私は考えずにはいられなかった。


 

 「人が死んだかもしれない」と。

 

 ただの事故の可能性もある。誤って落ちてしまった可能性だって。


 でも、私の脳裏にはさっきの言葉がはっきりと残っている。



 独りにしないで、と。



 彼は、あるいは彼女は。

 【いなくなりたい】と思って一歩を踏み出したのかもしれない。

 人生に絶望しながら。自分を呪いながら。

 行き場を失って、もう死ぬしか方法がなかったのかもしれない。


 それでも、心の底では、誰かに必要とされたかったのかもしれない。

 傍にいてほしかったのかもしれない。

 


 申し訳なさそうに響くアナウンス。

 そこには、電車遅延の原因に対する怒りや嫌悪が含まれているような気がした。

 

 私は遅延を知らせる文字を映す電子版を見つめる。


 固いコンクリートを踏みしめる。



 私たちは、生きなければならない。 

 

 たとえ、自分と向き合うのが辛くても。どんなに苦しくても。困難から抜け出せそうになくても。

 

 生きることが辛くても。


 

 生きることを、諦めない。

 愛することを、愛されることを諦めない。

 

 【あの世界】の一部になってしまった人たちの分まで。


 私たちは生きるんだ。




 だから、優さん。


 生きていて。





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