三日目 独りにしないよ
第21話 生きてるのよね?
長い眠りから覚めたような気怠さを感じる。瞼を持ち上げると、うっすらと白んだ光が視界を覆った。
それが布団のシーツの色であり、自分がうつ伏せになって横たわっているのだと、目覚めきれていない意識が告げる。
横たわっている……?
その自覚で意識があっという間にクリアになった。
がばっとベッドから跳ね起きて、布団がめくれる。
「……帰って、きた?」
そう呟いても、誰かが反応する気配もない。
ただ、自分の部屋がしんとした静寂を返してくるだけで。
カーテン越しに差し込む光で、今が朝なのだと知る。
フローリングが白く照らされ、埃がちらちらと舞っている様子が見える。
「……優さん」
そっと問いかけてみる。
でも、返事はない。気配も感じない。もう、私の中には私しか存在しない。
返ってくるのは、自分自身の言葉だけ。
帰ってきたんだ。
自分の部屋を見渡す。その空間全てが、ここが自分の本当の居場所なのだと教えてくれる。
帰ってきたのだと、持ち合わせている感覚の全てで悟った。
その懐かしさに、胸の内がすっと軽くなった。心の底から安心している自分がいる。
窓の外で、ちちちと鳥が鳴く声が聞こえてきて。
私はドアを開け、自分の部屋を出た。
廊下を歩いていると、物音が聞こえてきた。
自分以外の誰かがたてている音。それが、あまりに嬉しくて。
私は引き寄せられるように、階段を降りていく。
ふわふわとした感覚を持て余し、階段の段差で足を踏み外しそうになる。
そして、長い時間を経てたどり着いた気がしながら、リビングのドアを開ける。
とんとんと小刻みに響く料理をする音。
キッチンのほうへ視線を向けると、そこには母の背中があった。
クリーム色のエプロンのつなぎ目と、少し丸まった背中。頭の後ろでまとめた髪。
「お母さん」
唇が勝手に動いて、母を呼ぶ。自分の発した言葉の響きが、とてつもなく懐かしかった。
そして、包丁の音が止まり、背中を向けていた母が振り返った。
少し皺が目立つようになった口元。
きりっとした目元が、私を認めて。
目が合ったとたん、私の体から力が抜けた。
紛れもない。お母さんだ。
面倒くさくても、口うるさくても、いらっとする時があっても。
まぎれもなく私のお母さん。
この人も、私には大切な存在なんだ。
「おはよう、凛」
母はいつも通りに私を呼んだ。
聞きなれたはずの声が、心を撫でる。
「お腹空いてるでしょ? あなた、昨日から何も食べてないものね」
「……昨日?」
覚めやらぬ思いの中で、問い返すと、母はエプロンで自分の手を拭きながら私の傍へ来た。
「そうよ。私が起こしに行ってからずっと部屋にこもりっきりで。声を掛けても返事しないし、部屋に入ったら熟睡してた。疲れているんだとしてもちゃんとご飯は食べなさい」
「……私、昨日からずっと寝てたの?」
「そう言ってるじゃない。もしかして一度も起きなかったの?」
母が訝しげに尋ねてくるのを、私は呆然としながら、
「……多分」
と言うのが精いっぱいだった。
恋しさと戸惑いがごちゃまぜになっている。
私が立ちすくんでいると、母は不安げに私を見た。
「凛」
「何……?」
「生きてるのよね?」
母の言葉にどきりとした。
母は、【あの世界】に行っていたことについて何か気付いているのだろうか。
「生きてるよ」
言って、実感した。
私は、生きている。
ちゃんと戻ってきた。【あの世界】から。
母は私の返事に安堵の表情を見せた。そして、私の手をそっと握った。洗ったばかりの手はひんやりとしていて、でもそれが心地よかった。
「……凜が寝ている姿を見て、このまま起きてこなかったらどうしようと思って……だって、まるで死んだように眠っているから……」
母の声が掠れていく。
自分は母を心配させたのだと分かった。
そして、何故か胸の内に暖かさが広がった。
私は、この人に大切にされてるんだ。
「ありがとう。お母さん」
自然とこぼれた言葉に、私の思いが乗る。
「傍にいてくれて。心配してくれて。育ててくれて」
続ける言葉に胸が熱くなる。今まで言ったことのなかった言葉、もっと早くに伝えればよかった。
母は戸惑って私を見た。
「……どうしたの、急に」
「ただ、言いたくなっただけ」
母に【あの世界】の話はできない。したらもっと心配させてしまうから。それに、【あの世界】のことは自分の中に秘めておきたかった。
母はそれ以上聞かず、いつもの表情に戻った。
「当たり前じゃない。私の子どもなんだから」
その言葉に、胸が熱くなった。
私は、思われている。
私は、独りじゃなかった。
家から出られない私でも、部屋に閉じこもった私でも、母は私を見捨てない。
それは、変わらない。
鼻の奥がつんとして、私はとっさにうつむいた。
そして、引きつる喉で声を出す。
「ごはん、食べたい」
母は笑顔でキッチンに戻っていった。
私は、目に涙をためてあったかい朝食を頬張った。
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