第9話 辛かったね



 統合失調症……。

 


「……テレビで、聞いたことはあります」



 ドラマでも見たことがあるとは言えなかった。ドラマで統合失調症を患った役を演じる俳優さんは、私の脳裏に深く刻まれていた。発狂し、物を散らかし、娘役の少女が抑えても、まるで薬物を摂取したようにじたばたと手足を痙攣させる彼女の姿は、忘れたくても忘れられないシーンの一つで。


 でも、まさか、優さんが……。



『僕はその統合失調症って診断されたんだ。受験が終わってすぐだった。病院で治療を受けることになって、担当の先生は通院でもいい、って言ってたんだけど、母がどうしても入院させるって言い張ってね。それからずっと病院生活を送ってる』


 

 淡々と話す優さんの言葉に、私はどう答えたらいいか分からなかった。

 だって、優さんがあの俳優さんみたいに痙攣したような姿になるなんて、想像がつかなかったから。意識を放棄して、暴れる姿なんて。

 


「……どうして統合失調症って診断されたのか、聞いてもいいですか?」



 そう口にすると、自分が「社交不安症」と診断されたときの記憶が蘇ってきた。

 

 「社交不安症」も「統合失調症」も、精神疾患であるということは知識として知っている。


……優さんは、自分が病気と言われてどう思ったんだろう。


 私の問いかけに、優さんは『うん』と言ってくれた。

 その時、彼が微笑んだような気配がした。

 そして、彼は自分の病気についてぽつぽつと語り始めた。



『最初の兆候はね、人の声だった。高校三年生の時、「お前はどうせ受からない」って声がしたんだ。それは担任の先生の声だった。僕は最初は言われたこと自体が信じられなくて、勘違いだと思った。でも、それが何度も何度も聞こえるようになって、副担任の先生に相談したんだ。そしたら、担任の先生はそんなこと言ったことないって。確かにそんなこと言うような先生じゃなかったから、不思議だったんだ。だから、事態は僕の勘違いで終わるはずだった。でも、今度は友達の声が聞こえるようになったんだ。「頑張っても無駄だろ」とか、「志望校落ちるぞ」って。しかも授業中にね。それで後ろを振り返ったら、友達は突っ伏して寝てた。またそれが何回も続いて。おかしいな、って思ったんだ。でも、受験が終わるまでは我慢した。大学にも合格して、これでやっと解放されるって思ったんだ。そういう声から。でも、今度は別の問題が発生していてね。僕は夜型だったから、受験が終わるまでは気づかなかったんだけど、夜、眠れなくなってたんだ。それで、流石にどこか悪いんじゃないか、と思って病院にかかったよ。そしたら精神科に回された。そこで、ようやく今まで陰口だと思ってた声が〈幻聴〉だったって知った。不眠も統合失調症の症状の一つで、すぐに治療が必要だって言われた』



 落ち着いたトーンだけれど、それはどこか他人事のように淡白な響きを持っていた。

 一息に言った優さんが、息を整えるのが分かった。



『それから、僕はすぐ治療のために入院することになった。だから、念願だった大学生になることも、大学生活を送ることもまだ出来てないんだ』



 そう言った声には、優し気な雰囲気が取り戻されていた。



『だから、凛さんには感謝してる』


「……え?」


 優さんの身の上を聞いて、しかも、入院までしていて、自分では想像もつかないようなことを優さんは経験していて。

 その上更に、私に感謝しているって……。


 何を……?



『凜さんの大学を見せてくれて。大学って場所がどんなところなのか知りたかったんだ。凄く気になってたから。今凄く興奮してるんだけど分かる?』



 優さんの声は弾んでいた。


「分かります」という答えは声にならなかった。



 分かる。分かってしまった。

 

 

 自分の病気を打ち明けてくれたのも。

 苦しい過去を、現在を吐き出したのも。


 全部その言葉を私に言うためにしてくれたことだって、分かってしまった。


 私を慰めるために、励ますために、自分の身の上まで話してくれたんだって、分かってしまった。


 悲嘆にくれていた私を。泣きそうだった私を……。

 


 この人は、優しすぎる。

 自分を顧みないほどに。



 机にぱたりと雫が落ちた。

 私の涙だった。



「あれ……」



 私は、咄嗟に目元に手をやった。

 

 泣くつもりなんか、全然ないのに。


 どうして私は、泣いているんだろう。



『結局、泣かせちゃったか』



 優さんの声は、羽毛が肌を撫でるように私の心に浸透した。



『凛さんも辛かったね』



 優さんのほうがずっと辛いじゃないですか。


 それなのに。


 どうして、そんなことが言えるんですか?


 辛かったねって。


 そこで気づいた。


 私は、誰かに共感してほしかったんだ。寄り添ってほしかったんだ。今の優さんみたいに、辛かったねって言って、話を聞いてもらいたかったんだ。

 

 そう気づいたら、止まらなかった。



「優さん……。私、人が怖いんです。大学二年生になる前に……教授に…皆の前で否定されて、私の質問に、教授が、『君は全然分かってない』って言ったんです……『君が授業の邪魔をしてる』って……それから私、人を信じるのが怖くてっ……誰も信じられなくてっ……」

 


『うん』



「辛かった。怖かった。自分は必要とされてないんじゃないかってっ……誰かの迷惑になってるんじゃないかってっ……毎日怯えてっ……」



『うん。大変だったね』



 他人事じゃなく、心からそう言ってくれたのが伝わってきたから。


 私の大変さを本当に分かってくれているような気がしたから。


 その言葉を皮切りに、私の言葉は喚き声に変わった。喉から悲痛な叫びが溢れて止まらなかった。

 

 優さんは、ただ静かにその声を聞いていた。その沈黙に更に涙が止まらなかった。


 泣くことを許されているような、弱音を吐いてもいいんだよと言われているような、優しい沈黙だった。


 

 昼の白い日の光が差し込む、がらんとした講堂に、私の泣き叫ぶ声だけがいつまでも響き渡っていた。



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