第24話 来ないで



「あなたとは離婚するわ!」



 目の前の女性がスマホを握りしめて叫んだ。その人は、はたから見ても上等だと分かるようなブラウスに、紺色のタイトスカートを身に着けていて、毎週日曜日に放送されている天皇家の番組に出ても差し支えないような気品を漂わせていた。

 しかし、今は血相を変えてスマホの向こう側の人物へと金切り声をあげている。



「私は本気よ! 息子が生死を彷徨っているときに仕事を優先させるなんて、それでも父親なの!?」


 

 談話室にはその女の人しかいない。

 ということは、この人が優さんのお母さん。

 

 私がいるのにも気づかないのか、彼女は談話室のスペースを、ハイヒールの踵をカツカツと言わせながら歩き回った。そして、声を張り上げながら前髪をかきあげた。その人の顔が露わになる。化粧がとれ、疲労の色がはっきりと見てとれた顔。その表情に、私は自分の母の姿を重ね合わせてしまった。


 この人も、優さんを心配していたんだ。

 


 その時、スマホを耳に宛てて声を張り上げていた彼女が一瞬足を止めた。



「……私が悪いって言いたいの?」



 その悲痛な響きに私はどきりとした。



「……あなたは、何もしてくれなかったじゃない? 優が病気ってわかったときも理解しようともせず仕事があるからって私に任せっぱなしで。あなたが一度でも心からあの子を理解しようとしたことがあった……? 病院の付き添いだって代わってもらったこともない。穏やかだったあの子が誰とも話さなくなる恐怖を味わったことなんてないでしょ……? あの子が離れていく感覚を味わうことなんてなかったでしょ……?」



 そう言い重ねていくたびに、優さんのお母さんの顔から生気が失われていくような感じがした。


 優さんのお父さんの声がぼそぼそと聞こえる。内容は聞き取れなかったけど、その言葉でお母さんの目が驚愕したように見開かれた。



「依存……? 今までの私の行動は全部あの子に依存してるって言いたいの……?」


 

 信じられない、と続けそうな彼女は、ふざけないで、と消え入りそうな声で言った。



「もういい。病院には来ないで」



 優さんのお母さんは掠れた声で吐き捨てると、荒々しい動作で通話を切った。

 そして、流れるように談話室に置かれた薄緑色の長椅子に座り込んだ。

 その流れで、彼女がふと顔をあげた。

 

 目があう。


 青白い顔に驚きの色がともる。

 そして、彼女はバツが悪そうに、「ごめんなさい。見苦しいところを見せてしまって」と苦笑いを返してきた。筋肉の動きがぎこちない。彼女の動作の至る所に疲労が見て取れて、胸がずきりと痛んだ。



「あの……」



 私が声を掛けると、うなだれていた彼女が再び顔を上げてこちらを見た。

 怪訝そうな表情に、私は乾いた喉から声を絞り出す。

 


「木境優さんのお母様、ですよね……。あの、優さんに会わせていただきたいんです」



 言った。

 

 私の申し出に、彼女は更に眉をしかめた。向けられる視線は値踏みされているようで、肩が強張る。



「あなたは……?」



 優さんのお母さんが不審そうに尋ねてきたので、慌てて名乗る。



「坂本凜といいます。突然こんなこと言うなんて、失礼だってことは分かってるんですけど、」



「優の友達?」


 

 私が焦って謝ろうとしたところに、優さんのお母さんが声を被せて静かに聞いて来た。

 目を合わせてじっと見つめられる。真っ直ぐとした瞳は、何故かとても寂しそうで。

 

 

「はい」

 


 はっきりと返事をする。もう声は震えなかった。

 姿勢を正して、しっかりとその目を見返す。

 

 しばらく間があって、不意に彼女は目を伏せて「そう」と呟いた。



「優に、会ってあげてください」



 その声は、今にも泣きだしそうに聞こえて。

 私は「ありがとうございます」と、心から頭を下げた。



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