第25話 声をきかせて
優さんのお母さんはICUの場所を教えてくれた。
私のことを言えば看護師さんには分かるはずだから、と名前も教えてくれた。彼女は「木境奈都美」と名乗った。
奈都美さんは談話室の長椅子に腰かけたまま動こうとはしなかったので、私はもう一度、「ありがとうございます」とお辞儀をし、談話室を後にした。
去り際に見せた奈都美さんの笑顔が痛々しかった。
さっきの電話で相当疲れているのだろうか。
私は談話室のドアを閉めながら思った。
でも、いざICUへと足を向けると、あっという間に意識は『優さん』に切り替わった。
根こそぎ持っていかれた。
優さんは今、どんな状態なのか。
奈都美さんはさっき「生死を彷徨っている」と言っていた。
ということは、まだ危ないということなんだろうか。
会うことができても、優さんの意識はまだ……。
思えば思うほど自分の体が自分のモノではないような感覚に襲われる。
ふわふわと足が宙に浮いているような感覚がする。
心臓は自分の意志とは関係なく、どくどくと早まって、今にも皮膚を破って飛び出てきそうだ。
優さん。
心の中で彼を呼ぶ。
彼に会いたいのに。会えるのに、怖い。
目の当たりにするのが怖い。
優さんが、生きているのか。
心の準備ができているとも言えないまま、奈都美さんに教えてもらった通りに歩いていくと、明らかに他の病室とは違った雰囲気の漂う場所へとたどり着いた。
ずらりと等間隔で並ぶ真っ白なベッド。一定のリズムで刻まれていく電子音。消毒液のつんとした匂い。
開け放たれた入り口からそっと入ると、すぐそばのカウンターにいた看護師さんに止められた。
「木境優さんのお見舞いで、木境奈都美さんの許可は取っています」
胸の前で両手をぐっと握りしめながら、震える声でそう伝えると、その看護師さんは相好を崩し、「ご案内します」と言って先導してくれた。
並べられたベッドに横たわる人の横を通り過ぎていく。どの人も目を瞑って微動だにしない。もっこりと布団が盛り上がっているだけで、生きているのかも分からない。
その様子に胸がざわつく。見てはいけないものを見てしまったような恐ろしさが迫ってくる。
怖い。
【あの世界】よりもはっきりと【死】を感じる。
電灯は明るいし、日当たりが悪いわけでもないのに、はっきりと漂う仄暗さ。
死と生の境界線。ここにいる人たちは、そこに立っているんだ。
優さんだって、そこに。
その時、こちらです、と看護師さんに声を掛けられてどきりとした。心臓がバクバクっと脈打つ。
誘導されたのは、ICUの一番隅っこのベッドだった。そこには少年と思わしき体格の人が横たわっていた。ベッドの側面のボードに「木境優」と書かれていて。
彼が『優さん』なんだ。
ベッドからは幾重もの管が伸びていた。まるで蜘蛛の糸のように四方に張り巡らされた管。
この管が、彼の命を繋いでいる。繋ぎ止めている。
恐る恐るベッドの脇に近づく。息ができない。
それでも、枕もとを覗き込んで、その人の顔を見た。
眠っている。
そう見間違えるほど、彼の表情は穏やかだった。
黄緑色のキャップと呼吸器で、見える部分は少なかったが、そこから覗く閉じられた瞼に苦痛の色はなく、肌も健康的でつるりとしていた。
どこからどう見ても、彼が死の淵に立っているようには感じられない。
どこにでもいる普通の男の子だった。
でも、彼が『優さん』なのだとやけにしっくりきた。
私が【あの世界】で一緒にいたのは、この人なのだと。
彼が、私に優しいことばを沢山くれた人なのだと。
「……優さん」
思わず彼を呼んでいた。
表情はぴくりとも変わらない。
「……優さん。来たよ。あなたに、会いに来たよ」
掠れた涙声が出た。
泣くつもりはなかったのに、いつの間にかぽろぽろと涙がこぼれていた。
私は優さんの枕もとにしゃがみ込んで、穏やかそうに眠る彼の顔を見つめた。
「凜です。約束を果たしに来ました」
体の脇に置かれた、管に繋がれている掌にそっと触れて握る。
「優さんと……生きるために帰ってきたよ」
触れた掌は暖かかくて、それだけで胸がいっぱいになった。
やっと優さんに会えた。声だけじゃなくて、実体としての優さんに。
彼の閉じられた瞼を見つめて、語りかける。
「優さん……? 今は、どこにいるの……?」
ここにはいないの……?
眠っているだけなの?
すぐ目を覚ますよね?
眠っているだけだよね?
私の声、聞こえる?
「……声をきかせてよ。……優さん」
あの柔らかい声で、ただいまって言ってよ。
優しい声で、また名前を呼んでよ。
私も、おかえりって言うから。
「……優さん。目を覚まして」
【あの世界】の一部になんて、ならないで。
死なないで。
もう一度私に会ってください。
一緒に生きてください。
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