第26話 分からない



 優さんの手を握りながら、ベッドのそばのモニター心電図に目をやる。

 ぴ、ぴ、ぴ、と小刻みに震える音が静かなICU内に響く。

 これが、優さんの心臓の音。


 ドラマでしか見たことがなかった機械が今、目の前にある。

 ドラマの中では、患者さんが亡くなったら波が一本の線になって、数値がゼロになっていた。

 そのときのピーという音は、無機質で乾いた音だと思っていたけれど。


 優さんに繋がれたこの機械が、同じように鳴ったら。

 考えたくもないけれど、考えてしまう。

 自分の思考が嫌になる。

 わざわざ自分の首を絞めるような思考をして、勝手に不安になる。


 優さんのモニター心電図が示しているのが、どういう状況なのか、私には分からない。

 

 でも、これだけははっきりと私の中で繰り返される。

 一本の線にだけはならないで。



 ぴ、ぴ、ぴ、という音は優さんが戦っている音。

 命の瀬戸際であがいている音。


 優さん、死なないで。



 私が思いを込めて彼の手をぎゅっと握ったとき、誰かが近づいてくる足音がした。

 私が振り返ると、そこにいたのは奈都美さんだった。

 思わず立ち上がって自分がいた場所を彼女に譲ろうとすると断られた。

 彼女は私とは反対側のベッドの脇に寄ってきて、優さんの顔を覗き込んだ。



「穏やかでしょう? この子の顔」



 ぽつりと呟かれた言葉は、優しげで、でもミントのような刺激があった。鼻がつんとした。

 私が、はいと頷くと、奈都美さんは私を見て笑った。ぎこちない笑みだった。



「あなたが初めて。優のお見舞いに来てくれたの」



 奈都美さんは優さんへと視線を映しながら、彼の頬に触れた。



「病気だって分かったときも、入院生活を始めても、……この子が階段から落ちて意識不明になっても」



 奈都美さんの手が優さんの頬を撫でる。慈しむように。



「この子の傍にいたのは私だけだった。……こんなときに……生きられるかどうかも分からないときですら、連絡できる人がいないんだって。……でも、そうしたのは私自身なんだって気づいたの」


 

『母には、友達とも遊びに行くことさえ禁止された』


 優さんの言葉がよみがえる。

 


「この子に悲しい思いをさせてたのは私だったのね」



 奈都美さんの声が掠れ始めた。優さんを撫でていた手が止まり、躊躇うように離れる。



「……優がこんなになるまで気づけなかった」


 

 奈都美さんは自分の手を握りしめた。強く、骨に届くほどに。



「……私は、間違ってたのかしら?」



 そう落とされた言葉に、胸が詰まる。

 奈都美さんは私に尋ねているのではなく、自分に言い聞かせているようだった。

 その瞳は曇り、疲労の跡の奥にうずまいた後悔とか自責の念とか、そういうのがごちゃ混ぜになっているような表情をしていた。



「ごめんなさいね。こんなことあなたに話しても混乱するだけなのに」



「……いえ」



 私はそう言うしかなかった。


 愛がない訳じゃないんだ。

 この人も、この人なりに優さんが大切だったんだ。


 責められない。

 

 優さんは確かにこの人に束縛されていたかもしれない。

 いろんなことを禁止されて、窮屈で、優さんの傍には誰もいなくなった。

 でも、この人だけは優さんの傍にいつづけた。

 彼女の存在が優さんを苦しめるものだったとしても。


 それでも、奈都美さんは優さんが大事だった。


 私が何言えないでいると、彼女は置いてあった椅子に座り込んだ。



「さっきの電話、聞いていたでしょう?」



「……はい。すみません」



「いいのよ。あんなところで大声で怒鳴っていた私も私なんだから」



 そう諦念したように苦笑いした彼女は優さんを見つめながら、ポツリと呟いた。



「……この子を追い詰めたのは私なのかって、ずっと思ってたの」



 彼女はそう言って私を見た。瞳に迷いの色が見えた。確信して自分を責めている色も。



「階段から落ちたって聞いた時、事故よりも真っ先に自殺って言葉が思い浮かんだ。私と喋らなくなっても、『死にたい』とだけは言っていたから。……それでも、私は怒ることしかできなかった。そんなこと言わないのって。もっと違う接し方をしていたら、この子はこんなになることはなかったのかしら……私は、この子のSOSを受け取れなかったのかしら」



 奈都美さんはもう一度優さんを見つめた。体を震わしながら。そして、つーと頬に涙が流れた。



「この子にどう接してあげればいいのか、分からない」



 どうしてこの人は、私のこんな話をするのか、さっきからずっと戸惑っていた。

 でも、分かった。


 奈都美さんは、優さんのお母さんは、ずっと一人で優さんと向き合ってたんだ。

 死の淵にいて帰ってこない優さんと。

 

 そして、ずっと自分を責めていた。


 私が、最初の来訪者。そして、彼女と同じように優さんの帰りを待つ人。

 ずっと自分の中で抱え込んでいたんだ。抱えきれないものを。誰とも共有できなかったものを。


 私は、優さんの思いを伝えなきゃいけない。

 優さんと向き合おうとして、自分を責めている人に。

 彼が安心して帰ってこれるように。

 同じ待つものとして、奈都美さんに伝えなきゃいけない。



「……優さんは、絵を描きたいって言っていました。カラオケに行きたい。大学に行きたい。友達と遊びたいって。優さんのしたいことをできるだけでいい。帰ってきたら、させてあげてくれませんか?」



 奈都美さんが私を見る。私も彼女を見つめ返す。

 そして、彼女は何かを察したようにふっと笑った。

 

 

「……それだけでいいの?」



「今は、それだけでいいと思います。優さんの意識が戻ったら、彼はそうしたいって言うと思います」



 【あの世界】で優さんと交わした言葉。約束。


 彼の吐露を思い出して、懐かしくなる。

 私は彼の思いを受け取っていたんだな。

 彼の大事なものだったんだ。



「……あなたは、優を大事に思ってくれてるのね」


 

 しみじみと呟かれた言葉に、私は胸がいっぱいになった。

 奈都美さんと何かを共有できたような気がした。



「はい。大事です」


 

 そう答えると、奈都美さんは微笑んだ。

 今まで見た中で一番自然な笑みだった。


 私たちは一緒に優さんの寝顔を眺めた。


 私たちは、待ってるよ。

 あなたを大事に思って、帰ってくるのを願っているから。


 独りにしないよ。


 一緒にいようよ。


 【孤独の世界】に持っていかれたりしないで。

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