第14話 愛してほしかっただけ


 赤く腫れた目元が、痛々しく鏡の中に映っている。

 私は冷たい水を顔にばしゃばしゃと浴びせて、涙の跡を消した。

 ハンカチで濡れた顔を拭く。布の端から見える自分の顔はまだ不細工だった。


 自分はどうして顔なんか洗っているのだろうと思った。




 駐輪場へ行き、自転車に跨る。かごの中に夕日と海の絵を丸めて新聞紙でくるんだものを差し入れ、大学を後にする。



 顔に当たる風も、下り坂から見える街の景色も、今の私には何の感情も抱かせてはくれなかった。


 ざわざわと揺れる雑木林の音が、自棄に大きく聞こえて。


 自分は今一人なんだと突き付けられているようだった。


 すべての行動が億劫だった。風船の空気が抜けたように、自分の中にある何もかもが抜かれてしまったような感覚だった。


 ハンドルを握る手も、ペダルを漕ぐ足も、感覚がなかった。


 感情が、動かない。

 何も、感じられない。


 心の中にあるのは、ぽっかりと空いた穴。そこには何もなく、呼吸をするたびにその穴に隙間風が通っていくような感覚がするだけだった。



 いつの間にか、家の前に到着していた。

 そこからどう行動したかは覚えていない。


 きっと自転車を物置のスペースにおいて、玄関の扉を開け、家の中に入ったんだろう。

 でも、そこまでの景色も、自分がどう歩いたかも覚えていなくて。

 

 自分の部屋のベッドを目にしたとき、ああ、ここは家なんだと初めて認識した。


 私は引き寄せられるようにベッドにダイブした。どさりと音がして、全身が布団に沈み込む。


 


 ここで、私は、【独りになりたい】と思ったんだ。思ってしまったんだ。




 今ならあの時の自分がどれだけ愚かだったか分かる。




 私は、ただ自分を、惨めで可哀そうな人にしたかっただけだったんだ。



 切れていく繋がりに耐えられなくて、自分を悲劇のヒロインに仕立て上げることで、自分自身を守りたかっただけなんだ。


 自分の受けた傷の一つも、周りは分かってくれない。

 一人ぼっちで可哀そうな私。

 そんな自分のために涙を流していた。


 うずくまって、布団の中に閉じこもって、誰も自分の事なんか分かってくれないって嘆いて。

 そのくせ、分かってもらえるように努力したことが一度でもあっただろうか。


 薬を飲みなさいと言った母に、自分の悩みを話そうとしたことが一度でもあっただろうか。


 欠席し続けている自分の症状を、友人に知ってもらおうと連絡したことがあっただろうか。

 


 自分が抱えるものすべてを知ってほしかったくせに、誰かに悟ってもらうのを待つだけで。


 私は、何もしなかった。

 


 みんなは、そこにいたのに。


 手を伸ばせば、私が踏み出していれば、違っていたかもしれないのに。


 繋がりを切っていたのは自分だ。

 繋がりを切って、自分は可哀そうだと思い込んで、独りになりたかったなんてうそぶいて。


 本当に馬鹿だ。



 本当は、【独り】になんて、なりたくなかったのに。

 【独りにしてほしくなかった】のに。



 本当に【独り】になってみて初めて気づいた。



 私は、ただ誰かに愛してほしかっただけなんだ。

  



 でも、もう遅い。

 もう、元の世界には帰れない。

 帰り方が分からない。




 私一人では、どうすることもできない。



 こんなとき、優さんがいたら。


 

 自分の右手は、あの絵を握っていた。

 新聞紙を取り払い、中の絵を広げて見つめる。

 私が優さんのために描いた絵。

 

 何のしがらみも感じず、自由に書くことができた絵。


 でも、それは優さんがいたからだ。

 


 優さんがいなかったら、自由になんて描けなかった。

 優さんのために描いたから、私は私でいられた。



 今は、誰のために、自分であったらいいのかわからない。


 

 ううん。そんな難しいことじゃない。


 ただ、寂しいだけだ。


 寂しい。

 

 寂しい。


 優さん。


 

 枯れたと思っていた涙が再び溢れてきて、布団を濡らした。喉がしゃくりあげてくるのを止められず、私は布団に頭を押し付けた。



 お願い。何でもいいから、言って。

 あなたの声が聴きたい。






『凜さん』



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